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The Chaos Machineって本読んでる。SNSは怒りや争いを媒介してるんじゃない、まさに作り出してるんだ!って言ってるんだけど、その割に「人間には進化の過程で怒りの感情が強くあって……」みたいなこというので、いや、SNSかんけいなくな?ってなる。まあそれはいいとして、考えれば考えるほど、フェディバースが正解って気持ちになる。要するにSNSが悪いというか、SNSという事業でお金儲けしようとすると、当然過剰にエンゲージメント追求するに決まってるので。エンゲージメント上がるようにアルゴリズム調整してくと、もう、そういうことなのよね。
twitter継続きついなっておもったのは、自分が目にする言語じたいが痩せていくと自分がそこで使える言語も貧弱になるからなんだよな。じぶんでそう思わなくても、検閲の内面化みたいな作用が働いてしまうというか。いまの言語環境がめちゃくちゃ豊かかっていうとそんなことないんだけど、twitterよりぜんぜんいい。
高木まどか著『近世の遊郭と客』読了。
著者は、「吉原は近世身分制度から独立な公平性がある世界だ」という言説が歴史的に形成されてきたことに対して、遊郭で客として排除されてきた役者、穢多、非人について論じている。「身分制度から独立な公平性」があると言われる遊郭において「排除」されてきた客は遊郭外の身分制度において差別されてきた存在であり、ここに光を当てることで遊郭における「公平」が一部身分の人間にとって都合の良い公平に過ぎないことが明らかになる。著者がそこまで言っているわけではないけど、要するにブルジョワジーである。
著者の資料読解がめちゃくちゃ詳細ですごいけど、資料の性格がそもそもブルジョワ男性=客にとって都合のよい理屈が散りばめられていることが明らかになるのは、かなり読み応えがあった。
一方で、読み終わってよくわからんなあとなったのは浮世絵の存在で、これについては著者は全く触れていないので別な人がやるべき仕事だろうけど、浮世絵を育てたのは遊郭と芝居で、役者絵とか差別されていたのかどうかもよくわからない。
いや、まあ著者は、役者が遊女を買うことへの悪評は遊女評判記作者たちの嫉妬だとしているからそれで説明が済むのかもしれないけど。
しかし、「遊女評判記」のような下世話レビュー媒体と浮世絵は、楼主からすれば同じく広告機能を持つメディアではないかと思われ、一方の媒体(遊女評判記)では役者を蔑み、他方(浮世絵)では役者を称賛するという媒体環境になっている。そのへんが直感的に納得いかないところがあるけど、それはメディアの受け手が違うで済む話かもしれない。メディアの資金源と受け手が誰だったのかを知りたい。
ともあれ、この本を読んでとても良かったのは、近世社会がはっきりブルジョワ社会でブルジョワ文化であると理解できたことだ。浮世絵も、庶民文化というよりこのブルジョワ的性格を前提として理解しなければならない。浮世絵研究の領域ではまだこのブルジョワ的性格の読解は進んでいない気がする。今度の大吉原展とかが試金石となるだろうけど、たぶんそこは期待薄。
遊女評判記などの資料から、客の視点のブルジョワ的性格をこれだけ浮き彫りにできるのだから、浮世絵研究でもこれはできるはずだと思う。やる人がいるのかどうかわからないけど、古田亮氏はそういうのやりそうにないんだよなぁ。
中学一年生、めちゃくちゃすごい
はく製は絶滅したニホンオオカミか 気づいたのは都内の中学生 | NHK | サイエンス
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240227/k10014372671000.html
文化人類学生が、デザインリサーチやってみる~#0 どうしてやろうと思ったの?~|ぷらすけ @PURAsuke_008 #note https://note.com/hatake_kitchen/n/nd2be57e0b077
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国会図書館のデジタルコレクションの登場はほんとうにかなり画期的というか、埋もれた歴史をまあまあ掘り返せる、すくなくともヒントを獲得できるまでいける
業界慣習によって成立する語彙群も、主観の束みたいなものに還元されるわけでもなく、一種のプロトコルみたいなものになっていたりする
情報の客体化ってアーキテクチャの固定化を促すとおもうんだよな。ある種の客観的な正しさがあるのはわかるけど、その固定性がもたらすような問題がある。