「キュビスム 美の革命」展、プリミティヴィズムへの目配せはけっこうあるんだけど、ロシアアヴァンギャルドやイタリア未来派とかシャガールとかまで「キュビスム」の範疇として扱うけど、たとえばアジア圏のキュビスムとかは一切扱われず(萬鉄五郎とか)、西洋中心主義をあますところなく体現している
「キュビスム 美の革命」展、プリミティヴィズムへの目配せはけっこうあるんだけど、ロシアアヴァンギャルドやイタリア未来派とかシャガールとかまで「キュビスム」の範疇として扱うけど、たとえばアジア圏のキュビスムとかは一切扱われず(萬鉄五郎とか)、西洋中心主義をあますところなく体現している
西洋の近代観って単一の「近代」があるという観念だから、彼らからすれば「アジアのキュビスム」なんてニセモノなんですよね。「日本の科学」とか「アフリカの科学」というものはない、科学は単一のものだみたいな観念。多数の「近代」があるという観念は受け入れられていない。
おもしろかった
「制度としての美術館」と作品の意味・可視性 森美術館における会田誠回顧展と「ポルノグラフィー」論争
藤巻 光浩
https://www.jstage.jst.go.jp/article/comm/45/1/45_47/_article/-char/ja/
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キュビスム展の図録、ほんとに「目配せ」という感じなんだよな。プリミティヴィスムの見解としては、論者にもよるけど、1984年のMoMAのプリミティヴィズム展でのルービンの見解をほぼ反復している。フランス側の執筆者がとくにそうで、「大地の魔術師たち」展とかポンピドゥーだったとおもうんだけど、あれはなんだったのかという気にはなる。
歴史を対象とした美術展って、過去のある地点に存在した政治的・階層的な構造をある程度反復することになるので、現在の価値観とのギャップを評価したうえで展示を考える必要があるとおもうんだけど、美術史家はまじでそういう関心をもっていない。
というか、自分の関心はたぶん、歴史を対象としていようといまいと、美術の展示というものがいかに議論を喚起できるかという点にあって、そういった「問いを開く」みたいなことこそ美術館の役割だ、と自分が信じているからなんだな。「歴史的事実として正しい」ことを展示として反復されると、閉じたものとして感じられる(専門家しか参加できないのだから、それはそう)。歴史を対象とした展示は、自己への閉じ籠りが容易に発生するけど、それは鑑賞者を強く排除している。植民地主義うんぬんとかもあるんだけど、議論や問いが開かれているかどうかということが重要で、問いに開かれていないキュレーションの態度というものがいつもひっかかっているのだとおもう。
「アジアのキュビスム」というのはたいへんバカげた話で、そうなんだけど、それを提示してみることは「キュビスム」の範疇からなぜそれが排除されるのかという問いを開くことになる。というか20年前にまさに「アジアのキュビスム」という題でそれが問われたのだった。ポストコロニアリズムやフェミニズムは、こうした閉鎖的な構造にたいして問いを開くための介入的な実践としてあるはずで、「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか」というリンダ・ノックリンの問いは既存の構造の閉鎖性をあきらかにするためにある。
というようなことを、昨日読んだこれについて考えながら思った。著者の考えとしては、ミュージアムは意味生産の場としてあるべきなんだけど、そういう機能が脱落して「ハコ」化している。それはキュレーターや学芸員が責任をとらない、展示の閉鎖性を自明のものとしてしまうことにあらわれる(この論考は会田誠『天才でごめんなさい』展の分析が中心だけど、その閉鎖性は展示のタイトルに最初からあらわれている)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/comm/45/1/45_47/_article/-char/ja/
美術史研究やるんだったら展示というものは不要で、美術史の学会で論文を発表すればいいんだけど、美術史研究的な内容を展示するということはかなり位相が違っている。美術史研究と展示のあいだにある差はキュレーションと呼ばれる行為としてあるけど、「美術史研究」的な体裁をまとうことによって、あたかも「キュレーション」が不在であるかのように見せかける展示がけっこうある。編集による取捨選択でなにかを不在化させるという操作をしているのに、その操作がまるでないかのように振る舞う。「美術史研究」的な体裁の展示も、ブロックバスターもその点で同じで、それが議論を閉じたものにし、ある種の自閉性のなかにみずからを置くことになっている。