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@hidetakasuzuki 楽しかったっす!マヒトくん、「積み木を積んでくれ」って言われて「それは木ではありません、石です」って言ってて、うゎぁクソリプだぁ~って思いました。
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マヒトくん、ブルジョワジーにして貴族か皇族か悪くても士族で、弱者男性もなにもないんだけど、弱者(男性?)っていうならペリカンと殺生できない水みたいなやつですね
自分のブログへの反応、さすがにもうないんだけど、自分としてはまずアラステア・ライトとか大久保恭子とか読んでくれ〜って感じだったんだよなー。たかがブログがバズって揶揄言ってるのとかどうでもよくて(そりゃ嫌味言われれば自分は嫌な気持ちにはなるけど)。自分に揶揄いうのはいても、これ読んでねっていうのを読んでから批判する人はいないんだよな。みんな表面でごちゃごちゃ言うのが好きだなと思いました。
https://twitter.com/tenjuu99/status/1693235064518361243
日清戦争の錦絵、有名作家でもあんまり高くならないんだよなー。美術館とかでもアーカイブ揃ってなかったりするから買い集めればいいのにと思うけど、ヤフオクには手を出せないのかな。
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マティス展、宣伝の勝利って(肯定的に)ツイートしている人見て笑っちゃった
そういうのがみんな望んでいる世界だったんなら、まあそれでいいんじゃない。もうなげやりだけど。
ブロックバスター展だから仕方ないみたいなこと、内側っぽい人たちが言ってたけど、それでいいと思っているんだったらいいんじゃないですかね、くらいしか言うこともない
とてもよかった(コペルくんが叔父さんに書いた感想よりひどい感想だ)。
1937年に出した本なのがすごい。これを宮崎駿が映画のタイトルに選んだのも、いまこそ読んでほしい本だからなんだろうな。
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美術業界とかは一般の会社とかよりはるかに心理的安全性がないですねー。上司とかめっちゃ批判してそれで給料査定に響いたことはあんまりないんだけど(無ではない)、美術業界はかなりおつきあいの社会でさいきんようやく問題になってきているけど内部の人はなにが悪いかよくわかっていない(これは誰がどうこうって話ではなく)。母校とかおつきあいで教授が決まってるようにしか見えないし。
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「リアルに復元」とは...
https://chizaizukan.com/news/1Ah5tmfnlNwhY3lTwDDlAO/
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明治から戦前までの日本美術の流れをおっていて、なんとなく気にしながら見ているのが、どんな新興メディアがあるかということ、それがいかなる新技術(とおもわれたもの)に裏打ちされているかということ、それらがいかにプロパガンダを語るかということ、この辺が気になっている
技術は新らしいリアリティの規準を設定するものだとおもっていて、そこで技術が潜在的に語ろうとしているリアリティの可能性を引きだすのは、芸術なんじゃないかとおもっている
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「象徴的な次元」ってメディアのうえに構築されているものだとおもう。たぶん近代国家が発達するためには全国新聞が発達する必要がある。
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「リアリティ」の名において写真から写真でないものを生成することを賞賛してきた人たちがあって、今回の企画があり「客観的な「新証言」」という表現がでてくる
しばらく前に書かれた、ファーレ立川の岡崎作品撤去問題についてのレビュー。
森脇氏は直接そう書いているわけではないけど、「誰のものでもない土地=公共空間」というものがフィクションでしかない、と書こうとしているようには読める(なぜその断言を避けたのだろう)。
これはけっこう考えさせる1文だった。
「公共空間がナショナリズムを切断する仕方で成立するのにもかかわらず、そのリベラルな空間を維持しようとする私たちは、結局、文化保護とか「精神的基盤」とかいう、ナショナリズムをパロディしたかのような論理を行使するしかない。」
これはアイロニーとして書いているんだとおもっていたが、最後に「結局私たちはつねに「父」に対して有効な抵抗戦略を発明し続けるしかない。」と「しかない」を繰り返すことで、ナショナリズムのパロディとしての「文化保護とか精神的基盤」を肯定している。
たぶん、ナショナリズムを否定したうえで、フィクションとしての公共は、現時点では「所有」にたいする有効な戦略として肯定せざるを得ない、という理屈になっているが、本人も納得はいってなさそうではある。
https://jinnet.dokushojin.com/blogs/reading/20230203_01
うーん、「結局私たちはつねに「父」に対して有効な抵抗戦略を発明し続けるしかない」はやっぱり敗北宣言にしか見えないなぁ
そもそも、砂川闘争を「反米・日本民族独立のナショナリズム路線」とするのが、たぶんいろいろおかしくなっているんだとおもう。
誰のものでもない場所の公共性を言うなら、スパイラルジェッティとかを考えたほうがいいと思う。都市の中のこのサイズの人工物は取り外しも破壊も、それを想像することが容易すぎる。スパイラルジェッティは実際のモノとしてもあるが、想像上の聖地として存在していることが重要で、たぶん破壊されても構わない(実際に自然力に侵食されているし)。
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なんの価値もない変更どころか、どうせ代替テキストもつけないわけでしょ、これ。
twitter→X対応、アイコン変えるだけならともかく、"twitter" という文字列を "X" に変えてしまうともうソースコード上で grep できなくなってしまうのでキツいよなぁ
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よくわかんない部署っていうか、「えっこの人なにしてるの?虚無?」みたいなのはいる
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なんで芸術いつもすぐ死んでしまうん
https://shueisha.online/culture/155183
『ニューメディアの言語』、解像度が十分高ければ伝統的写真(アナログ写真)よりずっと細かなディテールを含むことができるがゆえに、「「連続的階調を持つ写真に含まれる無限の情報量」と、デジタル画像に含まれる一定量のディテールのあいだの区別全体を無効にする」と論じているのは、機能的に等価であれば事実上の差異は無視していいって言っているわけで、すごい暴論だな。
「インタラクティビティの神話」(文庫版 p.151〜)も、インタラクティブという概念が狭くて、利用者とメディアが「相互対話的」くらいのニュアンスで「インタラクティブ」という語が使われている。いまでもこの用法で語られてたりするけど、この語を当初広めたひとたちは「モノどうしの相互作用性」のニュアンスのほうが強かったとおもう。情報を媒介にしてモノどうしになにかしらの作用がおきる、というニュアンスだったとおもうんだけど、気付いたらインターフェースを媒介にしてユーザーとメディアの相互対話だって語彙になってしまった。
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読書会で「ここどうなん?」みたいなのチマチマやるのにちょうど良さそうなテキストだ
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note は暇空が記事売るためのプラットフォームであることはやめないんだろうな
これがわりと自分の感想というか読み方に近い。戦争をどう描くか(または描けないか)はここ数年宮崎駿の頭から離れなかったと思うし。
宮﨑駿監督作『君たちはどう生きるか』と日本の近代:悪意に満ちた「石」とその桎梏|髙橋優 @iovistakahasius #note #映画感想文 https://note.com/iovis_takahasius/n/n13d02398aa6d
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五姓田芳柳(二代目)の絵がどのような意図で描かれ、どのような歴史的意義があるかなど、資料の批判をつうじて明らかにしていこう!とはならないのが、いまっぽい話なのか(?)
「本プロジェクトは、当支部エントランスの壁に飾ってある、約100年前に描かれた関東大震災に関する1枚の絵画を起点に始まりました。100年という歳月によって震災当時の記憶も薄れ、描かれた当時の様子も絵画だけでは伝わり難くなってきております。AIという新しい技術のサポートを得ることで、描かれている当時の状況やそこから見出せる教訓等を想像しやすくなるのではないかという想いから、企画いたしました。」
そもそも五姓田芳柳の「絵」から、現実的な教訓を得ようっていうのが、なんなのか
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出生時に身体で性別を決定すること自体が「当たり前」と思われているが文化的に構築されたイデオロギーであり、権力作用の発生源なわけですよね。
そしてこのことと、医学的な知見や身体の条件性を否定することは違う。
つまり二つは両立するのだけれど、後者を否定しているように見えてしまう。前者を否定してるのに後者を否定してるように見えてしまうこと自体が、前者のイデオロギーが「成功」し、権力作用が働いてるからなんだけど。
人類学や美術史が「民族の本性」を語るのは、対象を固定し操作可能にするための装置だから。
メディアとしてのコンピュータの特性の議論ってコンピュータゲームの発達抜きには無理があるな
野球とかサッカーの中継見ると、ここ数年でゲーム的なデザインが流入してきてるよね
書物と映画がそれぞれページとウィンドウというメタファーとしてコンピュータのデザインに取り込まれているというマノヴィッチの話、ページはサーバー側にその区切りの根拠があってユーザー側で変更効かないけどウィンドウはそうではないとか、そんなことを考えた。
そういえばJavaScriptにもdocumentとwindowがあるのだった。
ウィンドウのなかには情報が埋まっているわけではないけど、ページのなかには情報が埋めこまれている
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村上浩康の その一本に魅せられて 第四回「エルミタージュ幻想」|土田有紀恵(おっとり工房)
https://note.com/tsuchinoko/n/nb7d18a1b25b4
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そろそろ外交戦のために我が代表が堂々と退場しそうだ
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ニューメディアの言語、画面とか画像とかの話にたいしてはいろいろ言いたいことがおおいな...。やっぱりこれは一人で読むより、複数人でツッコミながら読むのがよさそうな本だ。
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操作可能な選択肢が多いとじっくり考える系のゲームになりそう。将棋とかはまさにそれだけど。
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マノヴィッチが「ニューメディアの言語」で現実を排除したヴァーチャルな画面について強調してしまっているけど、ゲームについてはそういう(現実と無関係な意味での)仮想的な空間という言いかたはあっている。
けど、エンゲルバートの構想にとって重要だったのは潜水艦のレーダーとかで、これは外界と認知主体を繋ぐためのインターフェースだったわけで、業務アプリやらなにやらのほとんどは、現実を知覚するためのさまざまなビューを必要としている。
UIデザインの諸問題、けっきょく情報の開示と操作の提示の組み合わせに尽きるという気がする。操作によって可視的な情報に変化がおき、情報をもとに操作を決定する。
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起動したいアプリの名前がわからなくて Alfred で a から順に入力することがある...
操作が多様だから言葉を利用していく(コマンドを利用する)のってUI上の良い解決ではないので、そもそもの操作可能な選択肢を減らしていく必要がやっぱりある。
vim の Git プラグインのコマンド、 G blame しか覚えてない
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潜水艦みたいな話な気はしていて、潜水艦のレーダーは航行のために必要な情報だから進む方向を決めるとかそういう操作がある。行動に必要な操作がいくつかあり、その操作のために必要な情報が提示されている。操作に応じて提示される情報が適切に変化する。
みたいなのは、ゲーム的かもしれない(サイバネティクスという言葉があるけど)。
モードってそもそも隠れた内部状態があって、その内部状態によっておなじ操作UIで操作の意味が違うってやつだから、だいたい誤操作のもと
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アクセルとブレーキを兼ねるペダルがあるとして、ギアの位置によってアクセル or ブレーキになるような自動車を考えると、状態は可視的だけど、ぜったいに事故が増える
自分はモードがだいたいよくないと思っているのに vim 好きなのなんでだろうとおもってたけど、「情報を読みとる」ことと「操作する」ことをいつもフェーズ分けてるからだな。vimperator が現役だったときGスプレッドシートにモードをわざわざ導入したおぼえがあるけど、これも情報の読み取りと操作を分けたかったからだ。
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vim の jk の扱い、たしかデフォルトだと行移動なので、行が長くて画面上の折り返しがある場合に次の行に行くけど、見た目上の次の行にいく操作もある(この場合は実際には同一行内の横移動が行われている)
何が言いたいかというと、「今の状態がわかるようにする」という方向性だと画面がごちゃごちゃするわけで、「意図した状態に簡単に行ける」の方向を目指すのも解決としてはアリだろということ
……しかしその結果が MS Office のリボン UI だと思うと、やっぱりうまいやりかたではないのかも
画面というものに問題がある
自動車とかは、情報を表示する盤面と操作インターフェースが完全に分離されている
飛行機の操作体系は画面に押しこむことができるが、それをやるとかなり多くの問題を発生させることになる。操作機器類は露出させておくほうが絶対にいい。
単一画面(情報の表示と操作UIの同居)こそがモードの発生源になっていて、画面こそがソフトウェアデザインの躓きの石になっている
そもそも特定機械専用の物理的な操作機器はそれ自体が単一のモードしか持てない、という方が表現として正確そう
単一なモードしかもたないようにデザインしろってたぶんノーマンが言ってた(飛行機の操作を画面におしこむ話もたしかノーマンが書いてたはず)
複数のアプリケーションを扱えるという意味でモードが複数持てるのは、汎用コンピュータの本質的な強みな気がする
まさにそうで、「内部状態を抱えた機械」というものの登場はそう古いことではないが、過剰に内部状態を抱えている機械こそが汎用コンピュータ
vi がモードをもっているの云々というのもあるけど、そもそも vi の前にあったラインエディタとかテキストの全体がわからないままテキスト編集していたわけで、vi はまさにテキストの状態を可視化するツールとして現れたはずだとおもう
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ブレーキとアクセルを踏み間違えて人をひきそうになって以来こわくて車の運転をしていない
バイクはアクセルとブレーキ間違えるなんてないんだよな。ぜんぜん操作が違うので。自動車はよくないものが標準化しちゃった気がする。
飛行機の操作を画面におしこむ話、『人を賢くする道具』の第6章「分散された認知」に書いてあった。飛行機の操縦席になんでデカい操作機器が必要なのかというと、複数人で操縦していて、自分の操作を他人に見せる必要があるからという話。操作は内部的にはすでに電子的な操作であって昔みたいに物理的なものではないから、操作機器は小型化できるけど(それこそゲームコントローラーみたいなものが作られたらしい)、小型の操作機器を導入したらパイロット同士が互いに状態がわからなくなってしまった、という話だった。画面の話ではなかった。
今回みたいに、タイムラインに適当な議論をなげる人がいて野火みたいに議題がわーって広がるの好きなんだけど、協働的に思考するみたいなスタイルで、「飛行機の操作機器がデカいのは大事」みたいな話とつながっているなとおもった
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積んでた『対論 1968』(笠井潔、スガ秀実、外山恒一)を読んでるけど、社会運動史を知らない身としては勉強になるし、現在地の確認にもなって、いいな
風景論以降、文脈把握しないまま見にいって、松田政男という批評家じたい知らなかった。中平卓馬の元ネタがこの人なんですね。興味深かったけど、逆クロノロジーだったのがすごい不親切だな...。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4538.html
やっぱりウェブにも書いてないよな...。
カタログ流し読みしたかんじでは(買っていない)、松田政男の「なんでもない風景こそ権力によって作られている」という批評がこの展示でいう「風景論」で、中平卓馬もそれに影響を受けている。展示の意図としては松田/中平の「風景論」以降という話だとおもうのだけど、中平も松田も順路の最後なもので「??」ってなっていた。