ある技術的な環境を受け入れている立場から見ると、過去の技術的環境から現在の技術的環境への変化は、必然性をもったものに感じられるであろう。人間はだいたい現在を合理化したがるものなので、たぶんそういう必然性を発明するのだろうとおもう。というか、それは新しい技術を販売するためのマーケティングでもある。
ある技術的な環境を受け入れている立場から見ると、過去の技術的環境から現在の技術的環境への変化は、必然性をもったものに感じられるであろう。人間はだいたい現在を合理化したがるものなので、たぶんそういう必然性を発明するのだろうとおもう。というか、それは新しい技術を販売するためのマーケティングでもある。
たとえば、今自分はメモはパソコンでとっていて、紙と鉛筆みたいなセットではやらない。紙+鉛筆からパソコンへの移行は、逆行しえないと感じる。この逆行しえなさの説明は、技術の発達という物語によって語られる。だが、実際には自分のデスクの周辺から紙や鉛筆を追い払った環境ができあがったからにすぎないかもしれない。そしてたぶん実際にある環境を構築している人にとっては、パソコンでのメモなど非効率そのものだろう。
自分をとりまく技術的環境というものは「変わる」としか言いようがないものだけど(そのように言うことはなんの理由の説明にもなっていないのだが)、この変化を指して「技術の発達」という進歩史観を指し込むのは、技術を売りたいがわの売り文句とそれを需要するがわが、その売り文句をまるごと飲み込むことで成立する歴史だろう。
で、この「技術の発達」という物語が受け入れられることで、その技術は「インフラ」と呼ばれることになる。ある技術が「発達する」と受け取られるということはその変化に必然性があると感じるということとおそらく関わっていて、その必然性は、当の技術を「変更不可能」だと感じさせることになる。いまスマホがなくなったらどうなるだろうか。それに「想像できない」と答えるなら、スマホはインフラである。すくなくともその人はそう感じている。
そして、このような形での技術のインフラ化は、投下資本の移動によって変化したわけだから、自分のコントロール下にないものである。実際には過去にはおおむねその代替機能で満足していたわけだから、無くてもよかったはずなのだが、社会のほうがまるごと変わってしまうと事実上なしでは済まなくなる。実際にいま自分はパソコンなしに仕事ができない。このような形で、インフラ化した技術を、自己の外部として受けいれることになるのではないかとおもう。
いぬせな山本氏が、「ここ百数十年ほど版という形で表現を反復させ、表現そのものの基盤たりうる共同性を成立させつつ機能していた参照先=必然性=権威がいまや崩壊し、AIはじめ技術的発展も伴いながら表現が高速化/低価格化/自動化したりもした結果」と書くとき、やはりここには一種の技術決定論が響いていると感じる。この技術決定論は、自分が上記したような意味での「インフラ化した技術」が、われわれの生を条件づけているように感じられていることを物語っているようにおもう。
上述したような技術のインフラ化って、身体的なものとしてあったワザみたいな領域にあるものを、外在的な技術に変換していく過程でもあるよな。ただ、それが技術の発達した結果自動的に起きるという記述が誤りなだけで。
先頭のツイートで山本さんが「版」という言葉を使っているのは、昨日のイベントで七里圭さんが使った言葉。映画が気付けば「映画のようなもの」になっているという違和感を言語化しようとアレコレしてきたが、デジタル化でおおきかったのはフィルムという物質がなくなったことだと。写真の発明というのは(光学装置としてはずっとカメラ・オブスクラの原理が知られていたわけだから)、平面に塗った感光剤に像を定着させるということが発明だった。この技術の展開はリトグラフの発明と連続性がある。19cから20cにかけての映画を支えたのは、このフィルムという物理的な転写装置で、そこにリアリティを感じていたのが、現代のデジタル化された映像になってみるとこういう物質的支えを失ってしまった、ということを指して「映画のようなもの」と言っていたとおもう。
技術者からすると、技術の発達が第一目的で、投資や市場の形成はその手段に過ぎない。という見方もあると思う。人間が成長に向かっていく内的な動機が社会化することで、普遍の知識である科学や、普遍の技術であるテクノロジーが展開していくという考え方。
RE: https://pleroma.tenjuu.net/objects/a2682ab8-d5b8-4151-8814-9f9ada7e79c4
普遍的なものとしてのテクノロジーという観念、西洋文化を輸入する際に、文化と切り離されたものとしての技術という観念が発明されたものだとおもう。根を持たない技術というか。まあそれを言っているのはハイデガーだけど。
ビル・ゲイツが、いまの生成AIの発達はGUIの登場に匹敵する、もしくはそれ以上のものになりうる、というのは理解できるものの、なんかもはや「そうですか」くらいの気持ちで、失われていくものについて思いを馳せるようになってしまった。それがただのノスタルジーなのかどうか、自分でもよくわからない。
@gon_gitsune ごんぎつねさんの議論は、ある時期以降、技術的環境が構築され(=インフラ化)、もろももの技術的な発明はその技術的環境(インフラ)のなかで意味を持つ、という論かなと受けとりました。
自分の論点としては、「技術のインフラ化」という「語り」そのものが、技術と身体の切り離し操作をおこない、「主体にとってコントロール不可能な外部である」という宣言になっており、ある技術をインフラとして再配置する言説によって、その技術の「必要性」が喚起されてしまう、というようなことが議論の対象で、この「必要性」によって技術の変化が決定論的に見える、つまり、ある技術的存在が必然的なものに見えてしまう。
自分の考えるところでは、技術決定論(技術こそが社会や人間の思考を決定するという考え)は、まず上述したような操作によって、ある技術的存在が「必要欠くべからざるもの=インフラ化」と認知されるようになり、そうして過去の技術から現在の技術に向かって「必然的に発達」をしていると考えられるようになることを基盤にしています。なぜなら、このような語りによってはじめて、技術が自律的に進歩すると見做すことを許容するもので、人間を排除した技術の進化を語ることが可能になるからです。
技術の自律的進歩という観念を前提にすることによってはじめて、「技術こそ人間/社会を変容するものだ(技術決定論)」という語りが成立することになるものとおもいます。
技術が変化しないなら、技術による人間の変容(技術決定論)を語ることはできないから、それを語ることができるための言説上の基盤は「技術の進歩」という概念になると考えます。「技術の進歩」という概念が、上述のような意味で、言説上での「技術のインフラ化」操作による自律性の獲得によって成立するものであろうと。
技術決定論的な観念がどこからくるのか、その言説的な基盤の分析している論考ってあるんかな...
まあありそうだけども
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@tomooda E. Hutchins (認知科学者で、ドナルド・ノーマンの同僚)の「チーム航行のテクノロジー」という論文が、絶えず変化する船の現在位置と方角を割りだすのに、複数の船員の作業の相互作用によって計算が成立する様を描きだしていますが、これは環境・道具・人間の相互作用によって計算が成立するという意味で、 world-computer interaction の具体例に近いのかもしれません(現在の意味での computer ではありませんが)。
http://www.human-factors.seesaa.net/article/579561.html
分散型嫌いの声を見てみると、文化やノリが苦手というのは
割合として多いので、LTLなしという選択肢があることを周知できたらいろいろいい方向に行きそうではある
ある製品の代替物を作ろうとするとき、その製品より多機能であってはならぬという鉄則があるのだけど(当社調べ)、「LTLのある/なし」という概念の理解につまづくとおもわれる。
潜在的な選択肢は多くあっていいんだけど、ふつうは、デフォルトのユースケースを代替できるかどうかということだけを知りたい。「投稿の際にローカルのみかグローバルか選べますよ!」って言われても、そんな概念がない世界から見ると「わからん...。ふつうの投稿だけはできないの?」ってたぶんなる。
どーすりゃよかったんでしょうね。どうせ鯖が LTL を未実装であっても外部サービスが力技でクロールして疑似 LTL みたいなの作りたがった可能性は高いから、それを考えると原理的に可能であるものを API として提供してしまうのも自衛として考えられなくもない
Mastodon がデファクトになってしまったのでもう仕方なく、今後はもう流れに任せて ActivityPub 上の概念が、利用前のユーザーになんとなく了解されるまで浸透するのを待つ以外にはなさそう。
Threads がAP対応するなら、多少理解が広まるかもしれない。
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このことを考えていると safe Rust を書いているときと似たような脳の部分を使っている感覚があって、「境界のあるコミュニティは誰が “所有” しているのか」というのは結構重大な未解決問題な気がする。
本来ちゃんと考えてそれなりのモデルを作らないといけないと思うんだけど、現状の “テーマ鯖” ソリューションは「コミュニティがアカウント (≒アイデンティティ) を所有する」という明らかに直観に反するモデルを使っている。
アイデンティティとアカウントが綺麗に分離できていればそれでもいいのだが、少なくとも DIDs 以前の ActivityPub は基本的にそのようになっていない
「アイデンティティをコミュニティに所有される」という構造こそ、初心者を悩ませる諸々の使いづらさの根源だと思う。
「テーマに反したことを (心理的に/雰囲気的に) 発言しづらい」とか「複数のコミュニティに属するなら複数のアカウントを持たねば」とか「最初にどこのサーバにアカウントを作ればいいかわからない」とか、そういうの全部この逆転したモデルのせいでは? #distsns
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@polidog pleromaですか?ivory は pleroma いまのところ未対応ですね。対応予定があるのかどうかわかりませんが。
Fediverseはいわば《プロトコルを共有する人々が交流する空間》だけど、実際は多くの人々が既にSMTPやHTTPといった《プロトコルを共有する人々》になっているにもかかわらず、この《プロトコルを共有する人々》の集まりというのは《プラットフォームを共有する人々の集まり》よりもどうしてもダイナミックで捉えにくく、実感が難しいものになってしまうと思う。
@polidog pleroma側の問題かというとわからないですが。client 側の問題では?とおもっています(詳細不明)。
pleroma は運用が楽でいいですけどね。
これはおもしろいとおもうけど、やはり「本当か?」とおもう。というか、「技術は知覚を拡張する」という命題こそ、現代の技術についての神話として作用しているようにおもうから「本当か?」となっているんだけど。
https://twitter.com/NOZAWAHikaru/status/1673574753960067074?s=20