これすき RT
「「自然対数」という文字列を見て「ゴジラ対メカゴジラ」みたいには解釈しないのは,慣れの問題なのだろうな」
https://twitter.com/iwaokimura/status/1222005041709498369
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「原典を理解する」というレイヤよりも上層の,「エディタの意図を理解する」レイヤでめちゃくちゃ苦しむやつをやっていた
「何故その修正を呑むのか」「何故そのような補綴を挿しはさむのか」「何故それらの詩行を動かすのか」etc.について編者の意図を全て解明したうえで,そのような処置をする根拠となる解釈の妥当性を云々するフェーズに入るので,準備段階が非常につらい.
とはいえ,編者と同じレベルで議論しているならそれは必要な作業だが,翻訳者の立場としてはどのくらい許されるものだろう.
自分自身の便利を考えても,「○○版に準拠した翻訳」の方が実用性が高いのであって,「校訂者の判断が気に入らないので変えて訳しました」ということを随所でやられると不便であるし,またそこまでの権限が訳者にあるのかという気もするので.
私自身の立場としては,「底本とする版の校訂者の意図を汲みつつ可能な限りそれに準拠し,著しい問題がある箇所や翻訳のみを読む者にとっても面白いと思われるレベルの読みの違いが存在する箇所については,それを断ったうえで複数の選択肢を注記する」というものですが,意見は分かれるかもしれない(媒体面での制約としてほとんど註が入れられない,とかになるとまた話は違うだろうが).
「作者の意図」より「編者の意図」の方が往々にして読み難かったり,抑も意図もヘチマもないただの誤植だったりすることもあるので……
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「「~~ではない」を「~~である」に読み違えていたりして、「まるきり正反対の意味」に読んでいる事すらある」
これに相当する誤写(否定辞を勝手に挿入したり取り除いたり)を心掛けて集めていたことがあるのだがその大事なメモをどこかにやってしまった.180度意味が変わるのだから,大して中身も理解せずぼんやり写していて間違えたのだろうと当初は思っていたものの,実はむしろよく考えて解釈しようとしていたがゆえに間違えたという面白い例もあったはず.
https://twitter.com/sateco/status/1222302105882378241
古典作品の伝承過程で生じる誤記や誤解の多彩さを見ると,「無知な者だけか間違い,学識ある者は間違わない」などということは決してなく,むしろ「無知な人は無知な人の,賢い人は賢い人の間違い方をする」というのが確からしい.より一般化して「人には人それぞれの間違い方がある」とも言える.
句読点の打ち方だけ変えて解釈を示す(ないし従来の解釈を一蹴する)こともあるので,句読点の印刷ミスとかはすでに致命的だし,句読点法に一貫した考えのない版はそれだけで疑問符がつく(今読んでいる本にこの疑問符が付き始めた).
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不可解な文章を「間違った結果だ」と踏んで朱を入れるよりは,「何か隠れた意味があるかもしれない」とか「そうした不可解な言い回しにならざるを得なかった何かがあるに違いない」と睨んでそれを探ろうとする方に向かいがち.
語弊があるかもしれないけど,そう考えがちな根本には「その方が面白いじゃないか」というのがあるかもしれない.