ここからは、第2章「〈負い目〉という桎梏」(33-76頁)について。
「発災後はじめて行った第1回目の『てつがくカフェ 震災と文学~「死者にことばをあてがう」ということ』(2011年6月18日開催)では、〔中略〕参加者の多くから、思いのほか〈負い目〉や〈罪悪感〉に関する発言が相次いだ。震災を語ることそれ自体に〈負い目〉を感じてしまうという感覚は、もしかすると、今回の震災でじっさいにひどい被害に遭われた方々に比べて、被害の少なかった自分自身がそういった方々を差し置いて震災について云々することに対して抱く〈引け目〉の感情に由来するものなのかもしれない。あるいはそれは、被災地から遠く離れた地域に住む方々が、一方で、今回の震災で困難な生活を強いられている人たちがあるのを知りつつも、なにか直接的な支援ができずに(支援もせずに)、これまでどおりの普通の生活を享受し続けていることに対する〈後ろめたさ〉や〈罪悪感〉に因るものなのかもしれない」(33頁)
「かもしれない」もいいけれど、哲学カフェならば、なぜそれを参加者自身に尋ねて、参加者自身のことばで表現しないのだろう?