畜種分散でダチョウのこと調べてたらけっこう美容効果あるぞで美容業界に参入するみたいな商品展開の仕方、割と好きかもしれない
吉野家が化粧品事業に参入 飲食事業で使用するダチョウのオイルから商品開発 - WWDJAPAN
https://www.wwdjapan.com/articles/1897728
畜種分散でダチョウのこと調べてたらけっこう美容効果あるぞで美容業界に参入するみたいな商品展開の仕方、割と好きかもしれない
吉野家が化粧品事業に参入 飲食事業で使用するダチョウのオイルから商品開発 - WWDJAPAN
https://www.wwdjapan.com/articles/1897728
星野記事について(もうみんな飽きてるかもだけど)、けっきょくあのエッセー風告白体の文章は、告白において内面(私)を構成すると同時に、他者も作りだしている。というか私が私であるために他者の存在を(差異として)必要としているというか、それが「カルト」と呼ばれている。「私」はカルトではないものとして規定され、カルトは「私」をもたないものとして規定される。対話が成立しないのはカルトが「私」をもたないせいだとされているが、「私」が対話を試みているかどうかは定かではない。「ぼくが社会や政治について言葉にしてきたのは(略)、境界をなくして少しでもマシな状況へと変化させるためであった」という言葉とは裏腹に、どうも星野氏がこれまで主張してきたことは、「価値観の違う者同士が対話すること」なのではなくて、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる」という極めて自己反省的なもので、これで「境界をなく」そうとするのはエヴァンゲリオンかって話である。こういう書きぶりを見ると、「社会派」を期待されていた当初から、文学的言語(=孤立した内面による孤立的な発話)以外に処方箋をもっていなかったように思う。こういう「内面」こそが、内面を持たないものとしての「カルト」という存在をレトリカルに構成してしまう。
この星野記事そのものが文学的結構によって成立しているのだけど、ここで得られた効果も文学的な効果だったとおもう。まさにこうした「文学的な言語」こそが、「価値観の違う者同士が対話する」ときに必要とされるような中間的言語の開発を妨げているんじゃないかとおもう。
川村の件、ここまで露骨に「アートは公共財じゃないぞ」を見せつけられて「美術は大事だから守れ」とか言うのアホみたいな気になる。結果から言えば金持ちの道楽に過ぎなかったってことで、「金持ちはアート守る義務がある!」とか主張するの馬鹿らしいから、コレクション全部売却でいいじゃん(あれ全部買えるところあんまりなさそう)。休館前に最後にもう一回は見に行きたいとはおもうけど。
この文章自体が文学的言語によって編まれたものだから、この記事を称賛する仲俣暁生の発言はこうなる。
https://x.com/solar1964/status/1828346520191807760
これは高橋健太郎とやりあってるところで、高橋氏はどこが合意点とれるか議論を誘っているけど、仲俣氏はそれぞれで考えましょうとなる。「それぞれで考える内省的な自己」みたいなものが露出するのは、まさにこのテキストが文学的な言語として編まれているから。ここで仲俣氏が高橋氏に一線を引くことじたい、このテキストがもちうる政治的効果で、対立とは別な形で対話を避ける形態を模索する。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
他者から閉ざされた思考する自我みたいなもののほうが、カルトよりも無謬的だとおもうけどなぁ。対話の欠如というのが共通で、間違いを発見するプロセスが組み込まれない。星野記事が措定するカルトと自我がただの鏡像なのかもしれんけど。
あの記事、星野氏自身が「間違うの怖いです」というだけの告白なんだけど、その「怖い」をつくりあげるのが「カルト」で、「カルトに批判されるから怖い」というわりかし他責的思考になっており、今回の記事への批判も玉石混淆だけど、星野氏本人としては批判をカルトの発言として退けることができる。
何か小学校の学級会レベルでしか「議論」ができないのか。ていうか、本当に小学校の学級会みたいなものが、民主主義のモデルとして本気で信じられているみたいな。
学校教育にそういうセンスがなさすぎるのが問題なんだけど。私みたいなおばさんの時代と違って、今は少しはマシなのかな。もっとヒドイのかな。。
This account is not set to public on notestock.
美術館を潰す・縮小するような経営状況ではない(儲かっている)のに、縮小を議論しているのは、ファンドが主張するように「資本効率が悪い」からなんだろうけど、そんなもの取締役会が無視すればいいだけの話で(香港のファンドの株保有率は8.5%くらい)、それを無視しないというのは、そもそも会社が真面目に運営する気がないから以外にたぶんない。香港のファンドの提言は渡りに舟なんだろう。
今年のはじめのほうに(たぶん香港のファンドの口出しで)価値共創なんたらを作って、これが将来的な利益設計を考えるという体裁なんだけど、ほぼ美術館をどうするかという議論をしているらしい。で、この価値共創なんたらの構成員はなにかっていうとDICの社外取締役のメンバーが中心で、美術の専門化なんていない。外部の専門家を招くとは書いてあったけ、提言の内容は美術館の縮小・東京への移転、もしくは運用をやめる、というもので、とても専門家が提案する内容とおもえない。経緯を追ってみれば、やっぱり経営陣は売りたいように見える。いつ景気が本格的な後退期にはいるかは不明でそうなればあがりにあがった美術品の価格もどうなるかはわかったものではなく、価値の高いうちにあせって売ろうとしているようにしか見えない。
この価値共創なんたらの提案のなかに、たとえばアート事業を利用したDICの海外向けブランディングの提案とか一切なく、「移転+縮小 OR 運営停止」の結論しかなかった。価値共創委員会とかいうものふつうに考えて会社のブランディングをするものだとおもうけど、それがアートを利用したブランディングの提案ゼロで縮小か閉鎖かと議論している時点で、会社としては美術館事業にはほぼ興味がなさそうである。
美術館やコレクションというリソースの再利用の提案、世界に眼をむければいくらでも事例はあるはずだけど、それが検討の俎上にも上がっていないところを見ると、議論している人たちが「専門家」ではないことは自明だし、そういう事例を集める気もない。だからもう売り時を探しているということでしかないと判断している。全部売ればいいよ。
『多元世界に向けたデザイン』積んだままだけど、何年か前からこの本プッシュしてた先生がずっと「存在論的デザイン」という語を出していて「?」とおもっていたけど、テリー・ウィノグラードら80年代の認知科学者たちがハイデガーに影響を受けていたことが関係あるとかないとか。実際この時期にハイデガーは米認知科学界隈でかなり読まれていて現象学の復興はこのへんから起きているとおもう。
This account is not set to public on notestock.
「コンピュータと認知を理解する」はいい本だし、主張そのものは難解ってほどじゃないんだけど、眠くなります
目次ぱらぱら見てるとやっぱり認知科学方面の議論からはじまるんだな。たしかに状況論とかデザイン界隈の人好きそうな話。
Wikipediaの記事の中で1,2を争うほど好きにゃページですご査収ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E3%81%AA%E5%8B%95%E3%81%8D%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E5%8F%B0%E9%A2%A8
めちゃくちゃ素朴に思うけど、「リベラル」は戦いすぎなんじゃないですかね?友達になろうとかじゃだめですか
ナウシカも憎しみより友愛をって言ってた気がするけど、こういう素朴なメッセージあんまり聞かなくなった(気がする)
正義依存に疲れたとかなんとかじゃなくて、継続的な戦闘状態に巻き込まれていることに疲れるんでしょ。SNSももはや戦場だしそこらへんにプロパガンダが転がっているからいつも気を尖らせて「批判」しなければいけない。傍観は加担と一緒だから、沈黙しようが喋ろうが「正しい」ことを言わなきゃいけないなんて疲れるに決まっている。人間そのものが拡張された戦場においてリソースになってるんでしょ。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
scrapbox でリンクにしている
あと、scrapbox が複数になるとかなりめんどくさくなる(なっている)
16年前のブログに書かれてるじゃん。やっぱり最初っから美術館も美術もどうでもよくてついでにすぎなかったわけですよね。こんなどうしようもない態度のとこにロスコとかあるのむしろ哀れな気すらするので早く売ってほしい。
> 通常企業が美術館を作るときは財団法人などを設立して、別組織にするものだ。学芸員に聞いた。なぜ美術館が企業の一事業部門なのですか? いざというとき収蔵作品を売却することができるためです。何ともはや。
https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20080420/1208638859
自分がこれと類似の問題と考えているのは、立川の岡崎乾二郎作品撤去問題で、単なる私有財産として囲い込まれた美術作品は公共財としての性質を持たない。
立川の件では、美術業界(というか美術評論家連盟とかだけど)はそういうふうに振り返らなかったし、今回もそうなるだろう。作品にアプリオリな公共財としての性格を読みとろうとする。美術業界はこういう誤謬から反省する必要があるとおもうけど、この手の議論を展開できる人がおもいあたらない。
これは美術の自律性という概念に関わる問題であるはずだけど、論者がアプリオリな美術の自律性を強調することは完全に無意味で(立川の件で美術評論家連盟はまさにそうした論理を展開していた)、そうではなく自律性を確保できるスキームを考える必要がある。これで川村が美術館存続という決定をしたら、またなんにも議論は進まないで「よかったねぇ」で終わり。
でもアメリカ美術が私有財産的性格を強くもつのは、なんかそうかもしれない。壁画に拘泥ったポロックは怒りそうだけど。
これが一番詳しいな。けど、今期の決済短信読んだけど、2023年がやたら悪くて赤字だけど、2024年の経常利益見通しが350億円で、赤字垂れながしとか嘘すぎる。
https://artnewsjapan.com/article/2634
この規模の利益で美術館運営ごときが足を引っ張るわけもなく、いまのうちに売りたいので理由づけ探しているだけ