00:10:37
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しばしば指摘されているように、解放のイデオロギーとしてのナショナリズムと抑圧のイデオロギーとしてのナショナリズムは表裏一体のものである。ナショナリズムが「植民地支配に対する抵抗のもっとも重要な場」であることに疑問の余地はなく、それは植民地解放闘争を支える代表的イデオロギーであるが、他方それは「植民地主義が自らを再生産する力のもっとも顕著な証明」ともなり、植民地から独立した国家というかたちをとって「しばしば最悪の植民地体制にひけをとらないほど抑圧的な植民地主義のクローンが数多く生み出されてきたのである」(Dirks, ed. 1992: 15)。

00:16:46
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国民国家が植民地主義のイデオロギーを再生産することによって独立を果たすのだから、コロニアルな言説は植民地主義国家だけでなく独立後の国民国家にも存在する。

00:40:03
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第三章の「ブラジル独立後のコロニアル言説」、ある意味で日本にそっくりだ

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ラテンアメリカ諸国の独立の担い手は、植民地宗主国の文化的継承者を自認する植民地人たちである。それゆえに、例えば20世紀中庸のアフリカ諸国の独立の場合のように、独立後のナショナリズムの言説のなかで「植民地化以前の文化伝統の回復」というレトリックを用いることが原理的に不可能であった。それにもかかわらず、「インディオ性(Indianness)」を流用し、土着の先住民の正当な後継者として自らを規定する例は枚挙にいとまがない(Urban and Sherzer, eds. 1991)。ブラジルもその例にもれない。そのナショナリズムの言説は、ヨーロッパの植民地主義から独立を達成した主体としてのブラジル民族=国民という「われわれ」を事後的に構築し、その「われわれ」に土着の正当性を付与するために、先住民インディオという表象を流用し、同時にインディオが自らを表象する道を封じる。(略)インディオとは、他の民族と区別して「われわれブラジル人が何であるか」を定義するために、「われわれ」が利用できる専用の資源であり、「われわれ」が都合よいしかたで自由に定義する特権をもつ他者なのである。

11:14:04
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ブラジルの人類学者ラモス(Ramos 1990)は、欧米では人類学が帝国建設(Empire-building)に貢献してきたのに対して、ブラジルの人類学は国民建設(nation-building)をめざしてきたという、同僚の人類学者の言葉を紹介している。この違いは、前者が、自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企てであるのに対して、後者は、すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企てだと言い換えることもできるだろう。

これ日本の場合は両方あるな

11:18:33
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というか、日本の場合は、「すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」が柳田以来の民俗学であり、「自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企て」が人類学だ。

11:25:10
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梅原猛とか、アイヌ語に「原日本語」を読み取ろうとする試みがいくつかあったとおもう。あれは学術的にはどうなのかはわからないけど、「日本人とはなにか」という問いに答えようとするもので、「「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」そのものだとおもう。柳田國男や柳宗悦が琉球に関心を寄せていたのはどう理解するべきだろうか。

11:34:15
2024-08-12 11:30:45 安東量子の投稿 ryoko_ando@fedibird.com
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11:36:49
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親日であるかどうかにかかわらず攻撃的な態度が見えるのは弥助問題でも感じたことで、排外主義の発達がかなりすごくなっていると思うのだけど、白人に向けられる攻撃性は「サヨク」に対する嫌悪感なんだろうな。

11:58:21
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「一は全」って換喩的思考になるんだろうか。美術の歴史を示すような展示では、ある時代を「代表する」ような作物を配置することでその時代の全てを表象できるようにした、というようなキュレーション操作を「換喩的」だと誰かが書いていたのを読んでなるほどってなったんだけど。
換喩的操作って「代表する」ことの危うさが端的にあり、それは部分によって表された「全体」のほうから多様性を排除することでもあるし、代表をたてることによって「代弁する」というような危うさもあるかなぁとかふんわりしたことを考えた。
善の研究読んでいないけど。

12:04:34
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自分には、北斎とかって浮世絵の歴史的展開のなかで発達経路を追うことは可能だけど、けっこう例外的な天才に見えているのだけど、北斎をもって「日本文化の代表」とするような思考操作にぎょっとすることがある。こういうのも、一つの部分をもって「日本」という「全体」を代表させるキュレーション操作なわけですよね。

12:10:03
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「一は全、全は一」って王蟲も言ってたな。

14:50:36
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ランニングサボるようになって安静時心拍数めちゃ上がってるな

15:01:22
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ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。

どこの日本のことだ

15:10:07
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>異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。

15:16:44
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池田満寿夫問題と向きあうべきときな気がしてきた

15:47:24
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しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。