00:29:57
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極中道ってなんやとおもったら、エクストリームセンターという政治的立場があるのか

02:12:26
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連帯の根拠となるものが「左翼」アイデンティティだとまったく連帯の根拠になってないんだよな。

02:14:39
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20代から30ちょっとくらいまで歯を大事にしてこなかったのはまじで後悔している

02:26:36
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いろいろ勉強してみて、やっぱりそうだなと最近思っていることは、ある存在が政治的主体としての能力を発揮しうるのは、それが疎外された存在であることによってであるとおもう。疎外された存在が集団性を獲得するのであれば、それは強固な政治的基盤になりうる。左派という自認のなかにはこういう政治的基盤になる要素が一切なくて、共感なり連帯なりを生むことができない。

13:58:06
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これ、そうなの?柳が当時のインテリのなかで例外的に植民地主義に明確に反対していたのはそうだけど、現状の韓国・北朝鮮でどのように扱われているのかよくわからないな。まあ、福沢諭吉と渋沢栄一よりは良く受け取られそうではある。

柳宗悦を一万円札の肖像画に採用していれば、それだけで韓国と北朝鮮の対日感情が良い方向に向いたはず。 https://x.com/kimarx/status/1822881387487342617

14:15:20
2024-08-13 14:06:22 imdkmの投稿 imdkm@fedibird.com
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14:45:48
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なんじゃこりゃというか、いつまで「持たざる国」みたいな話するつもりなんだ、というのもだし、「民主主義と権威主義が交錯する時代」と言ったかとおもえば「米国は民主主義対権威主義の対立構図を描こうと躍起だが」と、書き手の主張がまったくわからない

「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS870HRYS87DIFI003M.html

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「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル
15:02:48
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この記事の感想(?)で↓というのがあったんだけど、日本人は10人以下になるべきだってコト?

ちょっとした10人程度の友人の会でさえ、難問で意見がまとまる事は少ない ましてや1億人以上で「民意」と言っても訳が分からん

やはり日本人には「十七条の憲法」が似合う

15:11:10
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松岡の「民主主義は終わる」を「予言」としちゃう時点でゴミ記事だし、民主主義と「民主主義陣営」による戦争は関係ないでしょ(関係あるのかもしれんけど関係あるなら関係性を明確にしてから書いてくれ)。この記事を朝日の人間が「日本や世界が同じような過ちを繰り返さないと断言できるでしょうか」とか宣うのも、大手メディアの当事者がめちゃくちゃ他人事でなるようになるくらいにしか思っていなそうなのとか、なんなんですかね。

15:40:59
2024-08-13 15:22:02 ぽんこつ 27Lの投稿 ponkotuy@social.mikutter.hachune.net
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21:34:51
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本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。

「第七章 芸術/文化をめぐる交渉」

本書を読もうとおもったのはここを読みたかったからなんだけど、理由は上記の問題設定が、浮世絵もあきらかにこの視点から読解できるはずなのと、この appropriation の問題がジェイムズ・クリフォードの芸術/文化の移行モデルをもとにしているから。「コンタクト・ゾーン」にも関心があった。

MOMAプリミティヴィスム展を巡るクリフォードvsルービンの論争も記述されていて、あらためて興味深い。

21:38:58
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プリミティヴィズムとジャポニスムの関係、ちゃんと問われていないはずなんだよな。

21:42:56
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タイムラインに文化盗用の話流れてきたけど、ジェイムズ・クリフォード的には、人類学による「文化(的な器物)」の収集と芸術・美術館による「芸術(作品)」の認定の分業関係を前提としたうえで、文化的器物を芸術として流用することだとおもう。文化にはコンテクストがあるけど芸術は普遍的であるから、そういう借用が可能になる(クリフォードの言う人類学と芸術の分業とはそういう関係)。

21:47:35
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人類学と芸術の分業関係が端的にあらわれているのが博物館と美術館というシステム。これらは芸術的対象を見るのと文化的器物を見るのとで、鑑賞の態度が異なっている。こういう意味で言えば、デュシャンの便器なんかはこのシステム間の移行(文化的器物から芸術へ、これがアプロプリエーションとしてクリフォードが考えるもの)という事象をよく物語っている。

22:07:00
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モダニズム芸術が、都合のよいアカデミズム批判をするために「非西洋」を流用したのとまったく同じスタイルで、ポストモダニズムも、「非西洋芸術」を都合のよい近代批判のために流用する。つまり、近代芸術が自明視する前提そのものに対するラディカルな挑戦となりうる差異を毒抜きして、自分に都合よく消化=理解できる差異に加工してつまみ食いしているのである。そもそも一九八四年にモダニスト芸術家による流用を正当化する展覧会が開催されるということ自体が、たとえポストモダニスト的批判を呼び起こしたとしても、二十世紀初頭と世紀末とのあいだに断絶よりは連続性のほうが多いことを窺わせるに充分である。

22:13:16
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仮に非西洋の器物が西洋によって芸術品の地位に格上げされたとしても、それは、その器物を生産した人物を芸術家として認知し、その制作プロセスを芸術作品の制作として認知することを必ずしも意味しなかったのである。プライス(Price 1989)によれば、「未開芸術」の収集家にとっては、作者が匿名であること、つまり、作者が芸術家と自認(自任)していないことが、その作品の価値を増す。また彼女は、収集家が自らの作業を「便器に対するデュシャンの作業」に類したものとみなしているとも指摘する。要するに、非西洋の制作者の意図などどうでもよく、芸術として発見する西洋の創造的な眼だけが重要だとされてきたのである。

まるっきり柳宗悦だった。

22:21:45
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著者の古谷氏は、この芸術/文化の分業システムにおけるアプロプリエーション(文化→芸術への流用=格上げ)の問題は、それが一方向的であることだとしている。ある器物を文化と呼ぼうと芸術と呼ぼうと、交渉の余地がない。この章の題が「芸術/文化をめぐる交渉」となっているのが、たぶん回答なんだろうとおもって読む。

22:23:30
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これやっぱり浮世絵の問題、とくに明治浮世絵が(美術史上で)なぜ打ち捨てられているのかという問題だな〜

22:25:19
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それと、モノと非=モノとしての芸術の差は何かと問うたフリードの問いも、裏側から考えることができそうにおもう

22:40:56
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本章で言う「交渉(negotiation)」という概念は、二重の意味を負わされている。まず第一に、交渉とは、文字通り、商品としてのモノの生産・流通・消費のそれぞれの場面での、売買における(価格によって表される)価値評価をめぐる交渉であり、それは需要と供給という市場メカニズムによって支配される。もし価値評価について合意に達しなければ、その交渉は決裂し、売買は成立しない。第二に、(略)交渉とは、あるもの(モノ、概念、イメージ、表象、ポジションなど)をどのように意味づけ、それを他とどのように節合するのかをめぐっての、複数の意味生産の実践のあいだのせめぎあいのプロセスを意味する。後者の場合、それは閉じた市場の需給バランスに従って展開するわけではなく、しかも交渉は終結することがない。

22:42:50
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ゴーギャンとマティスにおけるタヒチとかは一度調べたほうがよさそうな気がしてきた