00:46:07
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海外での新版画の評価拾っていきたいけど、これはめんどくさそうな領域だな...

00:52:40
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スティーブ・ジョブズのコレクションは公開されないのかな。公開するほど量があるわけでもない可能性あるけど。

01:16:14
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そういえば、マンガの Steves で新版画の話がでてこなかったの、おもいだせばちょっと残念ではある

01:27:57
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230522/k10014074811000.html
> 「新版画の絵師が、彫り師や摺り師をとおして実現した”自己表現”こそ、まさに、マッキントッシュの技術でやろうとしていることなんだ」

スティーブ・ジョブズがスカリーに言ったというこれ、表面もしくは結果としての作品の美的性質だけでなく、「分業制でありつつ自己表現をする」という大正期ならではの浮世絵リバイバル運動という性格をよく理解している。浮世絵の絵師というのはこの時期まで自己表現をするような芸術家ではなかった。「分業を通して自己表現をする」という大正新版画の制作をモデルにしてMacintoshの開発で求めることを述べるのはけっこうおもしろい。

Web site image
スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の版画との出会い | NHK | WEB特集
03:17:19
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シアスター・ゲイツ展アフロ民藝 見にいったんですけど、めっちゃおもろかったです。
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/theastergates/index.html
この人の態度、きわめてまじめなんだけどつねに軽さとユーモアがあって素晴らしい。
民藝と黒人の歴史、なにも絡んでいないのに、そこに空想的なパスを通して黒人の歴史と民藝の歴史を並列で考えさせようとするのが、手付きは軽やかなんだけど、それによって日本人にも黒人の歴史と現在を思考させることが可能になる。それはたぶんシアスター・ゲイツ自身にも逆の経緯があったようで、彼は常滑でのレジデンスでの陶芸経験が日本・中国・朝鮮の陶芸の歴史的経緯を知るきっかけにもなり、彼自身の陶芸も変わったとか。シアスター・ゲイツ自身が一つの交差点として機能するように、展示を組織していて、おもしろかった。

Web site image
シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝 | 森美術館 - MORI ART MUSEUM
03:20:44
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とにかく展示がうますぎる。年表展示があって、常滑の歴史、民藝の歴史、謎の架空の窯元の歴史、黒人の歴史と時系列に並べているだけなのにじっくり読んでしまった。

03:21:27
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@seki_takanao 関くんがシアスター・ゲイツについてのレビュー書いてるの?

06:01:42
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浮世絵が印象派に影響を与えたのは、印象派が浮世絵に「同時代の事象を同時代的に描く」ようなスタイルを見出したからだけど(こういうスタンスこそが「モダン」だった)、新版画とくに巴水の重要なモチーフは旅で、「見る」行為と見られる客体の完全な分離があり、この主体の疎外感が作品の味でもあるのだけど、これは印象派的な意味でのモダンではない。風景を描きつつ巴水が風景に読み取るのはノスタルジーという時間的なズレで、こういうのは原理的に印象派的な態度にならない。

14:56:17
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『柳宗悦と朝鮮民族美術館』の図録すごい、朝鮮の人の固有名が一人、しかもことのついでのように一度だけしかでてこなかった。
1924年当時に柳らが景福宮内に朝鮮民族美術館をつくったのはそれなりにまじめなつもりだっただろうけど、いまの地点から振り返ってみて、日本人の固有名だけで埋める歴史を書いてしまうのが、当時まじで日本人しかかかわっていなかったからなのか、それとも現在の日本民藝館の人が朝鮮(韓国)にまったく関心がないからなのか。前者は考えづらいとおもうので後者だろうとおもうけど。

18:03:30
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明治末から大正期の創作版画運動って、芸術家の内面とか個性が冒すべからざるものになったから生まれた運動であって、江戸の版元システムを再興しようとした新版画運動と対立するのはそこであるし、創作版画の「個人の絶対的自由」はあらたな政治的主体として成立するがゆえに後の民衆版画運動に繋がるのだと言えそうである。

18:10:13
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新版画運動の寿命の短さは、芸術家による内発的な運動ではなかったためであり、時代に即さない生産体制でもあった。新版画の受け入れ先はおもにアメリカで、戦争の開始は新版画の需要に決定的な打撃をあたえ、戦後にいたっても回復しなかった。

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失われゆく「真正の文化」を保護し救出しなければならないと主張する人々も同様に、自律的であった伝統的分化を近代化が破壊しつつあるというかたちで現状を認識する。そこでは「伝統的なるもの(the traditional)」についての言説が、「近代的なるもの(the modern)」についての言説と相互に構成的な関係にあるということが否定されるのである。しかし、「伝統的」とは、本質によって定義されるものではなく、「近代的」と自己定義する中心との、(排除を含む)関係のしかたである。つまり、「伝統的」とは、近代の内部において近代に対する一定の位置であり、それに対する関係のあり方である。

『異種混交の近代と人類学』古谷嘉章

18:48:27
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新版画の英語版Wikipediaをよむと、ほとんどお土産扱いで、彼我の認識の差がわかる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Shin-hanga

19:33:16
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ひさしぶりに縄跳びしたけどやっぱり脚にくる

21:34:19
23:01:42
2024-08-11 22:22:08 偽オム(hhvm)の投稿 hhvm@fedibird.com
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23:03:36
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早野龍五氏、不正論文疑惑からどうしたんだろうとおもって検索してみたら『「科学的」は武器になる』という本を出しておった