2024-08-11 00:46:07
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海外での新版画の評価拾っていきたいけど、これはめんどくさそうな領域だな...

2024-08-11 00:52:40
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スティーブ・ジョブズのコレクションは公開されないのかな。公開するほど量があるわけでもない可能性あるけど。

2024-08-11 01:16:14
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そういえば、マンガの Steves で新版画の話がでてこなかったの、おもいだせばちょっと残念ではある

2024-08-11 01:27:57
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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230522/k10014074811000.html
> 「新版画の絵師が、彫り師や摺り師をとおして実現した”自己表現”こそ、まさに、マッキントッシュの技術でやろうとしていることなんだ」

スティーブ・ジョブズがスカリーに言ったというこれ、表面もしくは結果としての作品の美的性質だけでなく、「分業制でありつつ自己表現をする」という大正期ならではの浮世絵リバイバル運動という性格をよく理解している。浮世絵の絵師というのはこの時期まで自己表現をするような芸術家ではなかった。「分業を通して自己表現をする」という大正新版画の制作をモデルにしてMacintoshの開発で求めることを述べるのはけっこうおもしろい。

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スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の版画との出会い | NHK | WEB特集
2024-08-11 03:17:19
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シアスター・ゲイツ展アフロ民藝 見にいったんですけど、めっちゃおもろかったです。
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/theastergates/index.html
この人の態度、きわめてまじめなんだけどつねに軽さとユーモアがあって素晴らしい。
民藝と黒人の歴史、なにも絡んでいないのに、そこに空想的なパスを通して黒人の歴史と民藝の歴史を並列で考えさせようとするのが、手付きは軽やかなんだけど、それによって日本人にも黒人の歴史と現在を思考させることが可能になる。それはたぶんシアスター・ゲイツ自身にも逆の経緯があったようで、彼は常滑でのレジデンスでの陶芸経験が日本・中国・朝鮮の陶芸の歴史的経緯を知るきっかけにもなり、彼自身の陶芸も変わったとか。シアスター・ゲイツ自身が一つの交差点として機能するように、展示を組織していて、おもしろかった。

Web site image
シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝 | 森美術館 - MORI ART MUSEUM
2024-08-11 03:20:44
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とにかく展示がうますぎる。年表展示があって、常滑の歴史、民藝の歴史、謎の架空の窯元の歴史、黒人の歴史と時系列に並べているだけなのにじっくり読んでしまった。

2024-08-11 03:21:27
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@seki_takanao 関くんがシアスター・ゲイツについてのレビュー書いてるの?

2024-08-11 06:01:42
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浮世絵が印象派に影響を与えたのは、印象派が浮世絵に「同時代の事象を同時代的に描く」ようなスタイルを見出したからだけど(こういうスタンスこそが「モダン」だった)、新版画とくに巴水の重要なモチーフは旅で、「見る」行為と見られる客体の完全な分離があり、この主体の疎外感が作品の味でもあるのだけど、これは印象派的な意味でのモダンではない。風景を描きつつ巴水が風景に読み取るのはノスタルジーという時間的なズレで、こういうのは原理的に印象派的な態度にならない。

2024-08-11 14:56:17
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『柳宗悦と朝鮮民族美術館』の図録すごい、朝鮮の人の固有名が一人、しかもことのついでのように一度だけしかでてこなかった。
1924年当時に柳らが景福宮内に朝鮮民族美術館をつくったのはそれなりにまじめなつもりだっただろうけど、いまの地点から振り返ってみて、日本人の固有名だけで埋める歴史を書いてしまうのが、当時まじで日本人しかかかわっていなかったからなのか、それとも現在の日本民藝館の人が朝鮮(韓国)にまったく関心がないからなのか。前者は考えづらいとおもうので後者だろうとおもうけど。

2024-08-11 18:03:30
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明治末から大正期の創作版画運動って、芸術家の内面とか個性が冒すべからざるものになったから生まれた運動であって、江戸の版元システムを再興しようとした新版画運動と対立するのはそこであるし、創作版画の「個人の絶対的自由」はあらたな政治的主体として成立するがゆえに後の民衆版画運動に繋がるのだと言えそうである。

2024-08-11 18:10:13
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新版画運動の寿命の短さは、芸術家による内発的な運動ではなかったためであり、時代に即さない生産体制でもあった。新版画の受け入れ先はおもにアメリカで、戦争の開始は新版画の需要に決定的な打撃をあたえ、戦後にいたっても回復しなかった。

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失われゆく「真正の文化」を保護し救出しなければならないと主張する人々も同様に、自律的であった伝統的分化を近代化が破壊しつつあるというかたちで現状を認識する。そこでは「伝統的なるもの(the traditional)」についての言説が、「近代的なるもの(the modern)」についての言説と相互に構成的な関係にあるということが否定されるのである。しかし、「伝統的」とは、本質によって定義されるものではなく、「近代的」と自己定義する中心との、(排除を含む)関係のしかたである。つまり、「伝統的」とは、近代の内部において近代に対する一定の位置であり、それに対する関係のあり方である。

『異種混交の近代と人類学』古谷嘉章

2024-08-11 18:48:27
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新版画の英語版Wikipediaをよむと、ほとんどお土産扱いで、彼我の認識の差がわかる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Shin-hanga

2024-08-11 19:33:16
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ひさしぶりに縄跳びしたけどやっぱり脚にくる

2024-08-11 21:34:19
2024-08-11 23:01:42
2024-08-11 22:22:08 偽オム(hhvm)の投稿 hhvm@fedibird.com
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2024-08-11 23:03:36
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早野龍五氏、不正論文疑惑からどうしたんだろうとおもって検索してみたら『「科学的」は武器になる』という本を出しておった

2024-08-12 00:10:37
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しばしば指摘されているように、解放のイデオロギーとしてのナショナリズムと抑圧のイデオロギーとしてのナショナリズムは表裏一体のものである。ナショナリズムが「植民地支配に対する抵抗のもっとも重要な場」であることに疑問の余地はなく、それは植民地解放闘争を支える代表的イデオロギーであるが、他方それは「植民地主義が自らを再生産する力のもっとも顕著な証明」ともなり、植民地から独立した国家というかたちをとって「しばしば最悪の植民地体制にひけをとらないほど抑圧的な植民地主義のクローンが数多く生み出されてきたのである」(Dirks, ed. 1992: 15)。

2024-08-12 00:16:46
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国民国家が植民地主義のイデオロギーを再生産することによって独立を果たすのだから、コロニアルな言説は植民地主義国家だけでなく独立後の国民国家にも存在する。

2024-08-12 00:40:03
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第三章の「ブラジル独立後のコロニアル言説」、ある意味で日本にそっくりだ

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ラテンアメリカ諸国の独立の担い手は、植民地宗主国の文化的継承者を自認する植民地人たちである。それゆえに、例えば20世紀中庸のアフリカ諸国の独立の場合のように、独立後のナショナリズムの言説のなかで「植民地化以前の文化伝統の回復」というレトリックを用いることが原理的に不可能であった。それにもかかわらず、「インディオ性(Indianness)」を流用し、土着の先住民の正当な後継者として自らを規定する例は枚挙にいとまがない(Urban and Sherzer, eds. 1991)。ブラジルもその例にもれない。そのナショナリズムの言説は、ヨーロッパの植民地主義から独立を達成した主体としてのブラジル民族=国民という「われわれ」を事後的に構築し、その「われわれ」に土着の正当性を付与するために、先住民インディオという表象を流用し、同時にインディオが自らを表象する道を封じる。(略)インディオとは、他の民族と区別して「われわれブラジル人が何であるか」を定義するために、「われわれ」が利用できる専用の資源であり、「われわれ」が都合よいしかたで自由に定義する特権をもつ他者なのである。

2024-08-12 11:14:04
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ブラジルの人類学者ラモス(Ramos 1990)は、欧米では人類学が帝国建設(Empire-building)に貢献してきたのに対して、ブラジルの人類学は国民建設(nation-building)をめざしてきたという、同僚の人類学者の言葉を紹介している。この違いは、前者が、自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企てであるのに対して、後者は、すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企てだと言い換えることもできるだろう。

これ日本の場合は両方あるな

2024-08-12 11:18:33
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というか、日本の場合は、「すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」が柳田以来の民俗学であり、「自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企て」が人類学だ。

2024-08-12 11:25:10
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梅原猛とか、アイヌ語に「原日本語」を読み取ろうとする試みがいくつかあったとおもう。あれは学術的にはどうなのかはわからないけど、「日本人とはなにか」という問いに答えようとするもので、「「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企て」そのものだとおもう。柳田國男や柳宗悦が琉球に関心を寄せていたのはどう理解するべきだろうか。

2024-08-12 11:34:15
2024-08-12 11:30:45 安東量子の投稿 ryoko_ando@fedibird.com
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2024-08-12 11:36:49
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親日であるかどうかにかかわらず攻撃的な態度が見えるのは弥助問題でも感じたことで、排外主義の発達がかなりすごくなっていると思うのだけど、白人に向けられる攻撃性は「サヨク」に対する嫌悪感なんだろうな。

2024-08-12 11:58:21
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「一は全」って換喩的思考になるんだろうか。美術の歴史を示すような展示では、ある時代を「代表する」ような作物を配置することでその時代の全てを表象できるようにした、というようなキュレーション操作を「換喩的」だと誰かが書いていたのを読んでなるほどってなったんだけど。
換喩的操作って「代表する」ことの危うさが端的にあり、それは部分によって表された「全体」のほうから多様性を排除することでもあるし、代表をたてることによって「代弁する」というような危うさもあるかなぁとかふんわりしたことを考えた。
善の研究読んでいないけど。

2024-08-12 12:04:34
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自分には、北斎とかって浮世絵の歴史的展開のなかで発達経路を追うことは可能だけど、けっこう例外的な天才に見えているのだけど、北斎をもって「日本文化の代表」とするような思考操作にぎょっとすることがある。こういうのも、一つの部分をもって「日本」という「全体」を代表させるキュレーション操作なわけですよね。

2024-08-12 12:10:03
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「一は全、全は一」って王蟲も言ってたな。

2024-08-12 14:50:36
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ランニングサボるようになって安静時心拍数めちゃ上がってるな

2024-08-12 15:01:22
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ネオリベラリズムの伸長と踵を接するように、「ラテンアメリカがポストモダニティの先鞭をつけたのは、概念がヨーロッパや北米のコンテクストで現れるより前である」という奇妙な議論がなされるようになってきた。それまで近代化にとっての障害あるいは跛行的な近代化の現れとみなされてきたラテンアメリカ社会の異種混淆性が、「先取りのポストモダニズム」として喧伝されるという事態である。

どこの日本のことだ

2024-08-12 15:10:07
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>異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。

2024-08-12 15:16:44
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池田満寿夫問題と向きあうべきときな気がしてきた

2024-08-12 15:47:24
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しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。

2024-08-13 00:29:57
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極中道ってなんやとおもったら、エクストリームセンターという政治的立場があるのか

2024-08-13 02:12:26
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連帯の根拠となるものが「左翼」アイデンティティだとまったく連帯の根拠になってないんだよな。

2024-08-13 02:14:39
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20代から30ちょっとくらいまで歯を大事にしてこなかったのはまじで後悔している

2024-08-13 02:26:36
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いろいろ勉強してみて、やっぱりそうだなと最近思っていることは、ある存在が政治的主体としての能力を発揮しうるのは、それが疎外された存在であることによってであるとおもう。疎外された存在が集団性を獲得するのであれば、それは強固な政治的基盤になりうる。左派という自認のなかにはこういう政治的基盤になる要素が一切なくて、共感なり連帯なりを生むことができない。

2024-08-13 13:58:06
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これ、そうなの?柳が当時のインテリのなかで例外的に植民地主義に明確に反対していたのはそうだけど、現状の韓国・北朝鮮でどのように扱われているのかよくわからないな。まあ、福沢諭吉と渋沢栄一よりは良く受け取られそうではある。

柳宗悦を一万円札の肖像画に採用していれば、それだけで韓国と北朝鮮の対日感情が良い方向に向いたはず。 https://x.com/kimarx/status/1822881387487342617

2024-08-13 14:15:20
2024-08-13 14:06:22 imdkmの投稿 imdkm@fedibird.com
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2024-08-13 14:45:48
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なんじゃこりゃというか、いつまで「持たざる国」みたいな話するつもりなんだ、というのもだし、「民主主義と権威主義が交錯する時代」と言ったかとおもえば「米国は民主主義対権威主義の対立構図を描こうと躍起だが」と、書き手の主張がまったくわからない

「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS870HRYS87DIFI003M.html

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「民主主義は終わる」松岡洋右は予言した 歴史が相似形を描く世界で:朝日新聞デジタル
2024-08-13 15:02:48
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この記事の感想(?)で↓というのがあったんだけど、日本人は10人以下になるべきだってコト?

ちょっとした10人程度の友人の会でさえ、難問で意見がまとまる事は少ない ましてや1億人以上で「民意」と言っても訳が分からん

やはり日本人には「十七条の憲法」が似合う

2024-08-13 15:11:10
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松岡の「民主主義は終わる」を「予言」としちゃう時点でゴミ記事だし、民主主義と「民主主義陣営」による戦争は関係ないでしょ(関係あるのかもしれんけど関係あるなら関係性を明確にしてから書いてくれ)。この記事を朝日の人間が「日本や世界が同じような過ちを繰り返さないと断言できるでしょうか」とか宣うのも、大手メディアの当事者がめちゃくちゃ他人事でなるようになるくらいにしか思っていなそうなのとか、なんなんですかね。

2024-08-13 15:40:59
2024-08-13 15:22:02 ぽんこつ 27Lの投稿 ponkotuy@social.mikutter.hachune.net
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2024-08-13 21:34:51
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本章は、大きくわけて三つの部分から構成されている。第一に、西洋近代で成立した「芸術」をめぐる言説が、どのようにして自らの普遍性をよそおい、非西洋世界の生み出したモノをどのような差異として「流用(appropriation)」してきたのかについて検討し、さらに、ポストモダンとよばれる歴史的状況のなかで、その一方向的なプロセスがどのように形を変えつつも連続しているかについて考察する。第二に、グアテマラのインディヘナの画家によって絵画が生産され、流通し、消費されるプロセスについて、上記の二つの村の画家たちの仕事に即し、私自身のフィールドワークにもとづいて概観する。そこでの焦点は、画家たちがどのような条件の下でどのような絵画を生産し、それがどのような「意味生産の実践(signifying practice)」なのかという点である。第三に、非西洋の「コンタクト・ゾーン(contact zone)」において西洋の技法を用いて制作される絵画が、どのような意味で「交渉」の場となっているのか、そこで何が「交渉」されているのかについて、オーストラリア、バリ、ザイール(現コンゴ民主共和国)などの事例をも視野に入れて論じ、それぞれの事例に特有の論点とともに、共通の問題点が浮彫にされる。

「第七章 芸術/文化をめぐる交渉」

本書を読もうとおもったのはここを読みたかったからなんだけど、理由は上記の問題設定が、浮世絵もあきらかにこの視点から読解できるはずなのと、この appropriation の問題がジェイムズ・クリフォードの芸術/文化の移行モデルをもとにしているから。「コンタクト・ゾーン」にも関心があった。

MOMAプリミティヴィスム展を巡るクリフォードvsルービンの論争も記述されていて、あらためて興味深い。

2024-08-13 21:38:58
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プリミティヴィズムとジャポニスムの関係、ちゃんと問われていないはずなんだよな。

2024-08-13 21:42:56
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タイムラインに文化盗用の話流れてきたけど、ジェイムズ・クリフォード的には、人類学による「文化(的な器物)」の収集と芸術・美術館による「芸術(作品)」の認定の分業関係を前提としたうえで、文化的器物を芸術として流用することだとおもう。文化にはコンテクストがあるけど芸術は普遍的であるから、そういう借用が可能になる(クリフォードの言う人類学と芸術の分業とはそういう関係)。

2024-08-13 21:47:35
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人類学と芸術の分業関係が端的にあらわれているのが博物館と美術館というシステム。これらは芸術的対象を見るのと文化的器物を見るのとで、鑑賞の態度が異なっている。こういう意味で言えば、デュシャンの便器なんかはこのシステム間の移行(文化的器物から芸術へ、これがアプロプリエーションとしてクリフォードが考えるもの)という事象をよく物語っている。

2024-08-13 22:07:00
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モダニズム芸術が、都合のよいアカデミズム批判をするために「非西洋」を流用したのとまったく同じスタイルで、ポストモダニズムも、「非西洋芸術」を都合のよい近代批判のために流用する。つまり、近代芸術が自明視する前提そのものに対するラディカルな挑戦となりうる差異を毒抜きして、自分に都合よく消化=理解できる差異に加工してつまみ食いしているのである。そもそも一九八四年にモダニスト芸術家による流用を正当化する展覧会が開催されるということ自体が、たとえポストモダニスト的批判を呼び起こしたとしても、二十世紀初頭と世紀末とのあいだに断絶よりは連続性のほうが多いことを窺わせるに充分である。

2024-08-13 22:13:16
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仮に非西洋の器物が西洋によって芸術品の地位に格上げされたとしても、それは、その器物を生産した人物を芸術家として認知し、その制作プロセスを芸術作品の制作として認知することを必ずしも意味しなかったのである。プライス(Price 1989)によれば、「未開芸術」の収集家にとっては、作者が匿名であること、つまり、作者が芸術家と自認(自任)していないことが、その作品の価値を増す。また彼女は、収集家が自らの作業を「便器に対するデュシャンの作業」に類したものとみなしているとも指摘する。要するに、非西洋の制作者の意図などどうでもよく、芸術として発見する西洋の創造的な眼だけが重要だとされてきたのである。

まるっきり柳宗悦だった。

2024-08-13 22:21:45
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著者の古谷氏は、この芸術/文化の分業システムにおけるアプロプリエーション(文化→芸術への流用=格上げ)の問題は、それが一方向的であることだとしている。ある器物を文化と呼ぼうと芸術と呼ぼうと、交渉の余地がない。この章の題が「芸術/文化をめぐる交渉」となっているのが、たぶん回答なんだろうとおもって読む。

2024-08-13 22:23:30
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これやっぱり浮世絵の問題、とくに明治浮世絵が(美術史上で)なぜ打ち捨てられているのかという問題だな〜

2024-08-13 22:25:19
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それと、モノと非=モノとしての芸術の差は何かと問うたフリードの問いも、裏側から考えることができそうにおもう

2024-08-13 22:40:56
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本章で言う「交渉(negotiation)」という概念は、二重の意味を負わされている。まず第一に、交渉とは、文字通り、商品としてのモノの生産・流通・消費のそれぞれの場面での、売買における(価格によって表される)価値評価をめぐる交渉であり、それは需要と供給という市場メカニズムによって支配される。もし価値評価について合意に達しなければ、その交渉は決裂し、売買は成立しない。第二に、(略)交渉とは、あるもの(モノ、概念、イメージ、表象、ポジションなど)をどのように意味づけ、それを他とどのように節合するのかをめぐっての、複数の意味生産の実践のあいだのせめぎあいのプロセスを意味する。後者の場合、それは閉じた市場の需給バランスに従って展開するわけではなく、しかも交渉は終結することがない。

2024-08-13 22:42:50
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ゴーギャンとマティスにおけるタヒチとかは一度調べたほうがよさそうな気がしてきた

2024-08-14 00:19:33
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日本画・洋画・浮世絵の関係まじでめんどくさいな。日本画も洋画も、初期の主導者たち(横山大観、菱田春草、黒田清輝とか)が浮世絵が海外で評価されていることを知っていても受容しなかったのは、人類学的な眼差しにおいて「日本」と見做されることを拒否するためであったはずで、つまり「土産物ではない」ことを主張しなければならなかった。黒田清輝とかはラファエル・コランのもとで浮世絵の整理とかやらされていたのに、たぶんマジで価値があると思っていなかった。黒田が印象派を受容しそこねたのもそれが原因。

2024-08-14 00:26:49
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日本国内で、浮世絵コンプレックスとでも呼べるものがあらわれるのはたぶん明治30年代をつうじてで、それは洋画や日本画が台頭し浮世絵が没落した時期であった。明治20年代まではおおむね棲み分けがあった。それで、明治40年頃になると創作版画の観念があらわれ、版画の美術的性格が受け入れられるようになる。ただこれはもう新しい美術観念のなかで再編成されたものだ。

2024-08-14 01:18:00
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第7章、アート関係者みんな読めっていいたくなるくらい優れた論考だ

2024-08-14 01:22:29
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神本秀爾『History Hunters ラスタファーライの実践』#03「僕はラスタにはならない」 https://hagamag.com/series/s0053/3944

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#03「僕はラスタにはならない」
2024-08-14 01:35:30
2024-08-13 21:23:33 fukuyoken3daimeの投稿 fukuyoken3daime@rockcd.jp
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2024-08-14 01:46:52
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これは読んでみたいが...

植民地朝鮮と〈近代の超克〉
戦時期帝国日本の思想史的一断面(仮)
閔東曄:著
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15139-2.html

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植民地朝鮮と〈近代の超克〉 | 法政大学出版局
2024-08-14 02:21:00
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(だいぶ昔の記事)古田大輔とかしょうもないなとおもうけど、安倍談話的な語りというか歴史観、つまり太平洋戦争の時期に軍事国家になった(それも欧米によるブロック経済が原因とする)というものを、素朴に受け入れてしまっているのって世代的なものなのかな。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/695abad1dee0ed9c9ba0f64f27f4e69f8a810759

日清日露戦争こそ植民地獲得戦争なんだけど、安倍談話はその日露戦争について「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とかギョッとすること言っていることにはノーコメントで「村山談話より踏み込んでいる」って言えてしまうのは、バカにしていればいい問題のようにはあまりおもえない。というか自分もこういう歴史観が間違っているとはっきり理解できるようになったのは恥ずかしながら最近だし...。

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村山談話を再び炎上させている人たちは、より戦争の被害に踏み込んだ安倍談話は批判しないのか(古田大輔) - エキスパート - Yahoo!ニュース
2024-08-14 02:23:44
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このへんの世代、左右無関係に新しい歴史教科書的な史観がイヤというほど染み込んでいる気がする。自分が安倍談話的歴史観を素朴受容したのは間違いなく司馬遼太郎を経由している。

2024-08-14 02:43:25
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林道郎がアジアのキュビズムについて語るのが、「ヘンなキュビズム」というようなオリエンタリズムを内に孕んだ視線で語っているようでイヤだったなとおもいだしている

2024-08-14 03:29:14
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読了。名著だったわ。

2024-08-14 13:47:17
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めちゃデカ荷物になるものを買ってしまったな。どこ置こう。

2024-08-14 16:21:05
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勉強量は増えたけど、物忘れがだいぶ酷くなっており、入ってきたぶん出ていっている

2024-08-14 16:48:01
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あれ、17日って台風直撃しているのでは...?

2024-08-14 16:51:07
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100年前の日本でなぜ関東大震災で朝鮮人が集団虐殺にあっているか、1919年の三・一独立運動で独立を叫んだことで「不逞鮮人」とみなされたわけですよね。まさにこれ、なぜハマースがテロリストとみなされるか? イスラエルによる支配占領、それをファタハの自治政府というかPLO(パレスチナ解放機構)は受け入れた。でも、あくまでも自分たちの主権を持ったパレスチナの国家をあきらめない、つまり「不逞パレスチナ人」である。だから同じように今、虐殺されている。 https://book.asahi.com/article/15383835

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「ガザとは何か」岡真理さん×永井玲衣さん対談 なぜ「日本に住む私たちの問題でもある」のか|好書好日
2024-08-14 19:01:02
2024-08-14 18:52:33 サトマキの投稿 satomuch@fedibird.com
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2024-08-14 20:00:05
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クルド人問題理解していなかったけど、イスラエルが独立支援する格好なんだな。まあ多民族共生とかイスラエルにはありえないからナショナリズム(民族自決)煽るのは思想的にもそうなるか。イスラエルの戦略が民族自決を煽ることで意図的に火種をつくって分裂状態に持ち込むことだとして、やっぱりシオニズムのような単一民族国家主義的なナショナリズムが悪質なイデオロギーなんだと思う。
https://synodos.jp/opinion/international/17706/

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クルド人は、イスラエルを熱い思いで見つめる――クルド独立への思い
2024-08-14 20:09:41
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現状では、イスラエル・パレスチナ問題は二国家解決が筋道なんだろうけど、サイードが二国家解決は解決にならない、イスラエル一国にしたうえで多民族共生を目指すべきだと主張していたのがひっかかっていたけど、ようやく理由が理解できた。単一民族国家主義をのりこえて多民族共生国家になることがシオニズムの克服だからだ。

2024-08-14 20:23:25
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ディアスポラをどう受けとめるかということが問題で、シオニズムを生み出したのも世界がユダヤ人を排斥したからで、排斥されたユダヤ人は国があるなら帰るわけだからユダヤ人民国家ができればそこに行く。これはディアスポラを否定することで成立する。帝国の解体は民族自決を促したけど、ポストコロニアル状況における「解決」と見なされてしまったのが民族自決なんだとすると、中東における民族自決主義の問題とはポストコロニアル以降の問題であるように見える。日本におけるクルド人排斥問題も、シオニズムの裏面だといえそうにおもう。

2024-08-14 20:39:32
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https://youtu.be/FIKuZYIpPvc?feature=shared
ボブ・マーリーたちは本気で exodus しようと思っていたのだろうか。

Attach YouTube
2024-08-14 21:11:57
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極中道 極道 違い

2024-08-14 23:08:15
2024-08-14 23:06:48 夜夏の投稿 _yonatsu@fedibird.com
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2024-08-14 23:09:30
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スペースワールド、行ったはずなんだけど何も思い出せない

2024-08-15 00:56:27
2024-08-15 00:54:52 サトマキの投稿 satomuch@fedibird.com
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2024-08-15 02:01:41
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やっぱマティスは典型的なアプロプリエーション作家だと結論づけられるな。

2024-08-15 02:13:08
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ゴッホもマティスもクレポン(ちりめん絵、外国人向けにつくられた浮世絵の一種)で色彩に目覚めるけど、これは単なるお土産品みたいなもので、粗雑であるが故に画面にしっかり色が定着していないという特性があるし画家やプロの摺師のコントロールから離れたものでもある。ゴッホとマティスは、このクレポンから色彩効果を学ぶけど、それはもとの画家(浮世絵師)の芸術的意図は完全に捨象したということだ。この過程は、理解ではなく変形と呼ぶにふさわしいもので、創造的行為である。彼らは浮世絵を理解することをやめて、単なる色彩効果として変形した。こういう過程はアプロプリエーションと呼べる。

2024-08-15 02:20:09
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これはキュビスムのピカソにもあったことで、前世代の印象派からゴッホまでは、まだ浮世絵のなかに日本文化の固有性が存在すると信じていたし、この文化固有性と作られたものとしての浮世絵を切り離すことが可能だとは信じていなかった。つまり彼らは浮世絵を通じて日本のスタイルを学ぼうとしていたんだけど、マティスとピカソはもうそういうことをやらなくなった。モノとそれが成立した環境は切り離して自由に解釈してよい、浮世絵から日本を知る必要はないしニグロ彫刻から"部族"を理解する必要はない。

2024-08-15 17:43:47
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御前会議におけるいわゆる「ご聖断」の図が戦後しばらく経ってしばしば描かれていたという話があり、これが描かれた背景には荒木光子というのがいてGHQの指示のもとにこういうのを描かせていたらしい(URLの絵は時期的にもっと後)。
荒木光子は右翼系のフィクサーっぽい動きをしていたようだけど、「ありがたい御聖断によって戦争が終結した」という物語を、GHQが右翼を使って流布していたという経緯なんだとおもう。GHQの目的は天皇の戦争責任を回避することであったはず。
8/15が「終戦記念日」となっているのも同じ流れだと考えている。正式な戦争の終了は9/2で、8/15を記念日にするのは玉音放送があったからですよね。

絵はこういうやつ↓
https://www.city.noda.chiba.jp/kantaro_museum/collection/1032634/1032582.html

2024-08-15 17:47:09
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「天皇が主体性・能動性を持った行為をする」というイメージの形成は、日本ではけっこうある。「天皇はポツダム宣言受諾という勇気ある決断をした」というのがこの物語の主眼としてある。こういうのは、日本の市民が被害者史観を形成する要因にもなっているとおもう。

2024-08-15 17:56:29
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玉音放送の文面とかも、完全に臣民だしな。市民ではない。玉音放送が毎年繰り返されることで、天皇-臣民関係を再構築しつづけることが重要な日のだと、穿った見方しかできなくなった。

2024-08-15 18:04:06
2024-08-15 17:59:19 itsuki@🔔もケツも着火🔥🔥の投稿 nosutaruthedoo@mstdn.jp
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2024-08-15 18:41:54
2024-08-15 18:23:15 白江幸司の投稿 ttt_cellule@fedibird.com
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2024-08-15 18:43:27
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おもしろそうで読みたい内容だけど、いがいと安くはないなぁ

2024-08-15 19:29:00
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そうこう言ううちにamazon在庫も減っており...。
3000円代のものはマーカーによる線引きありが残ってしまった。

2024-08-15 20:47:40
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昨日も書いたけど、ポストコロニアル下で現れるナショナリズムの典型はシオニズムだとおもわれ、土地=民族=国家を一体とする。これは端的に近代的な帝国の解体と同時に現れると考えられる。帝国というのはまがりなりにも多民族国家的な性格があるけど、それが解体して一民族国家イデオロギーが成立するという流れがある。現在の戦争の多くはこのナショナリズムというガソリンに火をくべる連中がいることによって成立するのだから、ポストコロニアル下におけるナショナリズムの次のモデルを考えなければならないはずだと思う。ナショナリズムを利用した戦争状態の継続を望む存在がいることにまず留意する必要がある。

2024-08-15 20:49:13
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とか書いてみておもったけど、こういう前提でたとえばヴェネチアビエンナーレとかどう理解すべきなんだろうな。ワールドカップとかオリンピックとかもそうだけど。

2024-08-16 01:31:06
2024-08-15 22:22:36 キエナイニュースの投稿 cubic_drop_for@kolektiva.social
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2024-08-16 01:39:44
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「朕」によって主体性が奪われたというのもわからないではない話だけど、香月とほぼ同世代の松本竣介はもっと反抗的な絵を戦前に描いているよね。主体としての自己を確認するかのように。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MatsumotoShunsuke_Standing_Figure.png#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:MatsumotoShunsuke_Standing_Figure.png

2024-08-16 02:24:07
2024-08-16 02:00:23 偽オム(hhvm)の投稿 hhvm@fedibird.com
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2024-08-16 03:16:29
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シオニズムを近代的植民地主義の延長とみなすのはやっぱり間違っているんじゃないかな。とおもったらちょうどこういうのがあったので読む。

委任統治下パレスチナにおける「民族対立」の創出の背景
金城 美幸
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yudayaisuraerukenkyu/32/0/32_60/_article/-char/ja

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委任統治下パレスチナにおける「民族対立」の創出の背景
2024-08-16 03:46:29
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ああー、「帝国主義」という用語と「植民地主義」という用語の差の説明にかなり納得した。20世紀初頭にレーニンらをつうじて資本主義の発達への批判的用語として「帝国主義」は定着したが、「植民地主義」は1950〜60年代にかけて、アジア・アフリカ諸国の脱植民地化における経験を指して定着していった用語である。形式的には独立国家となったが、実質的には旧宗主国に対する経済的不平等があったりする場合にも、植民地的性格があるわけで、これを克服するために植民地主義という用語で分析枠組みを提供してきた。帝国主義は、むしろ帝国の内部での問題であり、帝国主義の分析では植民地になった側の経験を記述できない。アジア・アフリカが脱植民地化という過程に踏み出すなかで、同時期にイスラエルがきわめて古典的な植民地主義を再演していたことが注目された。
自分は帝国主義と植民地主義の用語はごっちゃにしていた。実際としては帝国のやっていたことの清算なんだけど、分析枠組みとしては違うことを理解しておかないといけない。

2024-08-16 04:12:08
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国民帝国は主権・国民国家としては内部における等質性と平等性を追求しつつ、帝国としてはそれらの異質な法域を統合しつつヒエラルヒッシュに編成して外縁を拡張していくこととなった。(中略)帝国とは、こうして多様性や混成性を許容しながら、中心(本国)を基準とした価値基軸からの隔たりによって差異を序列づけつつ、一つの統合体系の一部として包摂していく差異のポリティクスとして現れることになる。

2024-08-16 04:17:54
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日本が、明治維新の際に、欧米からの自立を守るというだけではなく、帝国として出発した理由があまりわかってなかったけど(経済的・軍事的合理性があるように思えない)、西南戦争のような内戦を経て分裂状態を抱えるところから、外部に敵をつくりだすことで国内を「日本」というまとまりとして創出するために外部に眼を向けているだけだよな。

2024-08-16 04:28:31
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高井さんのこの言葉はすごくよかった。

ちなみにわたしは、なにかを中傷するために「同人誌」という言葉を使ったりは絶対にしませんよ。トランスやクィアの文化(カルチャー)を支えてきたのは、そして支え続けているのは、まさにそうした同人誌やジンですから。それに、自分たちで集まってものを作るって、そごく素敵なことじゃないですか。 https://x.com/Yutorispielraum/status/1823719508433100841

2024-08-16 16:37:41
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各国博物館が脱植民地主義の方向に向かっている現在に、日本の国立西洋美術館が西洋近代の美術に固定されつづけていることをどう考えていいか、よくわからない

2024-08-16 17:45:43
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たとえば、これまで戦後補償として論じられてきた問題も脱植民地化という枠組みで理解できる。歴史をさかなでるこれら「他者からの呼びかけ」は、「日本の脱植民地化はいまだに終焉していない」ことを示している。これは、ともすれば糾弾の声として否定的な響きをもつように受け取られるかもしれない。しかし、その声は、むしろ新たな関係を日本とのあいだに構築したいという希望の声ではなかろうか(徐 二〇〇二)。それは時間の連結をとおした未来の再想像へ、われわれを一緒に誘う声である。脱植民地化の時間においては、植民者が自らの過去を忘却することにより被植民者と共有できる未来はなく、植民者としての過去を記憶し続けることから、被植民者とともに人間性を回復しなければならないだろう。

太田好信「解説 批判的人類学の系譜」(『文化の窮状』所収)

2024-08-16 22:45:31
2024-08-16 22:31:21 宮下さゆりの投稿 miyarisayu@sayurili.hostdon.ne.jp
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2024-08-16 23:27:40
2024-08-15 16:25:53 廃墟/怖音の投稿 kowaoto@mstdn.jp
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2024-08-17 13:07:09
2024-08-17 12:47:45 まめむみこの投稿 mamemumiko@vivaldi.net
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2024-08-17 14:34:38
2024-08-17 14:25:14 小嶋裕一 Yuichi Kojimaの投稿 mutevox@fedibird.com
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"沖縄戦について教科書で記述されるようになったのは主に復帰後ですが、1982年、文部省の検定で、高校日本史教科書における、「日本軍による沖縄戦での住民虐殺の記述」について、検定意見がつき削除されています。 アジアへの「侵略」を「進出」などに“書きかえさせる”検定が問題視されていた頃です。記述の元になった『沖縄県史』は、一次資料としては認められませんでした" d4p.world/28734/

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歪められる教科書、「非政治化」される教育――「平和学習」はどうあるべきなのか | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)
2024-08-17 17:08:25
2024-08-17 16:28:01 白江幸司の投稿 ttt_cellule@fedibird.com
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2024-08-17 17:08:27
2024-08-17 16:36:14 白江幸司の投稿 ttt_cellule@fedibird.com
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2024-08-17 23:22:54
2024-08-07 09:52:26 nogajun🍉の投稿 nogajun@mastodon.social
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