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「踊るポンポコリン」を聞いて、そういえば「ちんどん屋」という言葉を知ったのはたぶんちびまる子ちゃんからだなとおもった。というかちびまる子ちゃん以外からちんどん屋的なイメージを得ていない気がする。「踊るポンポコリン」もちんどん屋っぽい感じがあるけど、「踊るポンポコリン」がちんどん屋っぽいのか、自分がちんどん屋という語を学習するときに「踊るポンポコリン」がすりこまれたのかわからない。
小学生のころ、クラス内で見ている番組の人気投票があって、ちびまる子ちゃんが1位だったことに、男子がなんでドラゴンボールじゃないんだって憤っていたのをよく覚えている。たぶんそのころ放映していたのはフリーザ編だったとおもう。
ああ〜これは便利だ〜
https://artplatform.go.jp/artists
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鳥山明が世界中から追悼されていて、ほんとうに愛されていたんだなとおもったけど、この記事で、ああそうかと思う。
https://butaco3.hatenablog.com/entry/2021/08/21/190111
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うーん、芸を身につけているかいないかにかかわらず、当時の遊女がどのような主体性をもってどう生きたのか?という点がちょっと物足りない気がする。
「構造的に遊女にさせられた」っていうのはそれはそうなんだけど、であるから当時の遊女たちには主体性がいっさいなかった、とは言えないというか。「当時の彼女たちの自主的は判断で遊女になったのだ」とか言いたいわけではまったくなく、「主体性が奪われた」存在として表象しつづけるのがいいのか?ということに疑問がある。
https://note.com/yuukaku/n/n59ea8cd1e0b7
江戸期の遊女が「主体性を奪われた」存在だったのは間違いないんだけど(「商品」だったわけだから)、だからといっても、誇りを持って生きていた人もいるだろうし、抵抗した人もいるだろう(遊女から妓楼への訴訟がある)。こういうのは(訴訟も含めて)「文化」なんだとおもうんだけど、問題なのは、「吉原の文化」というときにブルジョワ男性の視点からの記述が中心になっていることではないか、と思っている。
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技術的・構造的な差というより、マクルーハンの語るメディア論みたいなもので、本→ブログ→SNSとテキストメディアが移行する際に、その移行の差分は「無意識的に」受容される。そのメディア変遷において無意識が受けとる差分こそ、「メディアはメッセージである」とマクルーハンが言うところ、ではないかとおもう。
ただ、マクルーハンがこういうとき、前提となるのは「ある一時代に支配的なメディアが存在する」「技術は時間的に進歩(もしくは変遷)する」ということで、いわゆる技術進歩史観を前提とすることになってしまう。複数の技術・メディアが併存する状態でもいいやんって最近考えている。
新宿に歩いて行ける街って、長年住んでた家賃の安い風呂なしアパートでしたよ。お風呂屋さんには、独居の貧乏なおばあさんがいっぱい。そういうトーキョーのエアポケットは、もはや大手の不動産屋の開発で駆逐されつつある。