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フィルム写真とデジタル写真の違いで、撮影時に即時にプレビューされるかどうかは大きいのではないだろうか。フィルム写真だと撮影から現像までに時間があるけど、デジタル写真の場合はデータを即時に見る。
これとおなじようなことが、印刷物とマイクロブログにもあるんじゃないかということを考えている。そこが並ぶのどうなのっていうのはいったん置いておくけど、印刷物は原稿があり製版されて出版される。原稿と印刷物のあいだには編集過程があって、写真の現像とおなじようにその撮影時点との時間的な隔たりをつくりだす。マイクロブログは書いたものがそのまま投稿される、とみんなおもっていて、編集とか現像のような時間的隔たりを作りだす過程がない。
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最初のDM投稿が、通常の投稿フォームから公開範囲選択してメンション相手を決めるようになっているんじゃないかな
DM欄から対象ユーザーを選択できるようになっていれば誤爆はかなり減るとおもう
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社会運動の名前が時代を跨ぐモノや概念の名前に転用されたりすると、おかしくなってくる
なるほどたしかに
そのへんからすると「新型コロナウイルス」は許容したいが、新幹線はどうすればいいのか
あと、新山口駅はええっこれはダメなのでは?って当初から感じたのはおぼえている
そういえば今日タイムラインで批評が必要かどうかみたいな話題が流れていた気がするけど、批評が作品の善し悪しを論じるものだとかなんとか以前に、趣味の開示をする自由なんてふつうにあるのでは?という感想。
というか、市民社会って批評によって成立するので、それが作家でもなんでもいいけど権威的な存在によって批評が排除されるというほうがよっぽど問題ある。
批判と批評は違う、みたいなのよく聞くけど、自分は批判のニュアンスが根っこにあるべきだとおもっています。ただの論考なんじゃなくて、批判的な論考を公表する自由がある。
批判と批評は違うっていう物言いは注意しないとあぶないし、敵対的な見解は「批評」ではないというレトリックがまかりとおるほうが嫌なことだとおもう。
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技術そのものは (発生や利用の後押しなどの社会的文脈から切り離して) あくまでニュートラルに見つめることはできるんだけど、現実世界にそれを持ち込む以上は文脈から切り離された存在であることは実用上ありえなくて、ゆえに社会的な観点からの非難を免れない場合が多い
批評というのも、それそのものは純粋にコンテンツに対する考察たりうるかもしれないけど、それを読み手に向けて放流した時点で社会の状況や発表者の名前という文脈が紐付いてしまうことは免れないし、ゆえに (意図に反して) 批判として認められてしまうことはありうる
核融合の理論それ自体は善い利用も悪い利用もできるだろうしそういう意味で中立かもしれないけど、その成り立ちを考えると中立な存在として産まれ育まれてきたわけではないし、そういう意味では中立な存在ではない (少なくとも、なかった) ということもできる
“純粋な内容” に対する評価と、それが発生・発表された時点での文脈における位置付けというメタなレイヤーがあるという認識が大事なのかな
どちらかというと「文脈から切り離された “純粋な内容”」という概念の成立を認めるか否かの違いなのか。そうかも。
自分は批判的な精神を重視しているけど、ある見解にたいする敵対的な立場をいったん仮にでも構想してみないと、対象になる見解の別な姿が見えてこないからで、そういうことはけっこうあるから批評と批判を区別するのを好まない
これ自体は欧州の文化を批判するわけではないんですが (私自身は懐疑的な考えを持っているがそれは別の話)、たとえばディベートにおいて「仮想的にヒトラーを擁護する立場に立つ」ことは向こうの人々のタブーに触れるんですかね。あるいは、これが「最終的にヒトラーが文句なしで満点の悪者だった」という結論に持っていく八百長であるという前提のもとでのみ許される、みたいな感じだったりするんですかね
社会的倫理の問題と、思考の世界とが混同されている気がする。
「ヒトラーはいいこともした」みたいな議論は、社会的倫理にもとるからダメとかっていうより、「大地は平面だ」みたいな主張に近いとおもう。
思考を制約するものに、倫理と常識があるとして、倫理をカッコにいれることができたとしても常識というものの存在はあいかわらず思考の制約として作用する。常識は、先行研究や言説の集合として形成されるものだとおもうけど、常識を解体することで議論を先にすすめることができるようになる場面もあるし、逆に常識をうたがったからといってなんの実りもないこともある。
そういえばコードレビューとかも批評の一種と言えるけど、あれは他人がコードを言語に変換する作業を媒介にしたコミュニケーションで、レビューに対して言語で返してくる人とコードで返してくる人いるな、と思った(思っただけ)
コードと、コードが実現するソフトウェアの振る舞いとがあって、それが適切に記述されるか(コードが要求を適切な形で満たしているか)を見ているんだけど、その「適切さ」って良し悪しの判断は入っており、この良し悪しの判断はたぶんに主観的なものでもあって、それを客観的な見解として述べようという気はあまり起きない
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野家啓一の『歴史を哲学する』読むか
明治の絵画史を紐解いていて、国民統合の物語そのものではあるけど、歴史意識そのものの批判的な発展もあり、そのへんもうちょっと考えたい
ダントーの物語としての歴史とかも気にはなってたけど、ダントーぜんぜんおもしろくないんだよな...
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パターンランゲージ、そのパターンをもとにしてものごとを生成するための言語だけど、「パターン・ランゲージを生成する」とか手段と目的が逆転してるなー
https://note.com/babakikaku_s/n/ncd91dad7c369
> パターン・ランゲージは、すでに豊かな経験を持っている人から「コツの抽出」をし、他の人が「やってみたくなるヒント集」として提示するという、新しい「知恵の伝承&学び」の方法です
なんでそんなことになったのか
井庭さんはパターン・ランゲージって言葉使わなくてよかった気がするけどなぁ
アレグザンダーが建築過程全体のなかで考え位置付けていたパターン・ランゲージを、文脈から切り離して「道具」として利用できるようにするという発想、日本ではありがちな気がする。
マイナンバー、100%をもとめて批判されてるんじゃなくて、なんのためにやっているのかわからないから批判されてるとおもうんだ...。
はじめたから最後までやろう、目的はよくわからないけど、みたいなプロジェクトたくさんある...。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e5fced3ced90274542b2dc570192d9438ed06743
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検索のリンク先に飛ぶ前に生成AIがページを要約。Google新機能║PC Watch
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1524251.html
アメリカのみでの実験的なものっぽいけど、GoogleとかTwitterとかに入口占拠されている限りWebメディアには未来がなさそうな気がする...。
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1524251.html
さいきん明治期の美術を調べているけど、いくつかの事件が頭に入ると、元号けっこう便利だなってなってしまった...
いや、だからそうやって過激なことを言ったり、アイデンティティや主張を簒奪することで、必死で注目を浴びてアテンション稼ぐって戦略なわけでしょ。いちいちみんなで拾ってどうすんの。
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