@daibaka 了解。まあ取りあえずよかったけど、グラフから推定すると五箇月分ぐらいか…。直前の記録は 2024/9/30 が最後 ?
言葉と文字とヨッシーアイランドが好き。たまごっちやここたまのアニメを見ます。たまに絵を描きます。フォントを作ったりします。2023 年 1 月から https://mofu.kemo.no の副管理人です(いきなり権限を付与されたけど受け入れました)。
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@daibaka 了解。まあ取りあえずよかったけど、グラフから推定すると五箇月分ぐらいか…。直前の記録は 2024/9/30 が最後 ?
@daibaka ああ、頻繁に見てくれたのね。Masto.host の人は「十ギガバイトに達し次第、実行する」と言っていたんでしょうか ?
今後も、一月に一回以上ぐらいの間隔で記録していきましょう。そうするとグラフが読みやすいかから。よろしくお願いします
I commented on YouTube :
Oh this is a good point to bring up regarding the “weirdness” of Japanese numbers. It should look foreign to English speakers. 白飯を二百グラムぐらい食べた… 今日はお客さんが店に百人以上来た… In English they have adverbial “a lot”, right? I kind of see it as a very restricted version of Japanese number adverbs, though I don’t know if that is accurate. Perhaps another way to look at it is that they behave similarly to “x times”, “for x hours” and the like. →
→ “林檎を三回食べた” (∅ ate apple three‐time) is structurally very similar to “林檎を三個食べた” (∅ ate apple three‐object). Also “部屋に三時間いた” (∅ was in room three‐hour; I stayed in the room for three hours) is similar to “部屋に三人いた” (∅ was in room three‐person; There were three people in the room).
I remembered it’s called 遊離数量詞 (floating quantifier) in the linguistics jargon.
https://www.youtube.com/watch?v=yJJINS4zczY&lc=UgxJm9IQ1j2zOAEYkH94AaABAg
近所のホームセンターを覗いて来ました。回転ゴム印(1200 円ぐらい)、インクの台(900 円ぐらい)、車輪付きの椅子(現品限りで 9000 円ぐらい)、踏み台というか低い脚立〔きゃたつ〕(4700 円ぐらい)を見た。
新朝日の数字六桁の回転ゴム印は、やはり最初の桁に「0」がなかった。これ二千円強で揃うオモチャだけど、私には用途が皆無だからな…。紙に絵を頻繁に描くなら、その日付けに使えるだろうけど。
家の椅子は、硬い背もたれに紐でクッションを巻き付けて何とかしてるけど、やっぱり回る椅子が一脚あるべきだよなあ。
家の中で高い所に手を届かせるには現状では安定性が怪しい椅子の上に立つしかないので、まともな足場が一個あるべき。頻度は低いけど。もっと安いのもあったけど、4700 円の奴は大変軽くて、折り畳めば小さくて、耐荷重も百キログラムあるので魅力的だった。
19:46:15 に建物の軋〔きし〕みがあり、19:46:18 ぐらいから ちょっと強めの揺れを感じた。危険な程ではない。
これ書いて思ったけど、日本語の数量詞って遊離する時に真価を発揮すると言うべきかも。まあ「林檎が一個なのか、一切れなのか、一袋なのか」といった表現力もあるけど、遊離した場面では「一個なのか、一回なのか、一時間なのか」という対立まで担っている。
学習者が「物を数える時に、平べったいか、細長いか、どちらでもないかなんて区別する必要ないぢゃん、なんでわざわざ」という疑問を抱く時、「日本語の数そのものは連体修飾要素ではないので…」といった消極的な理由しか語られない事が多い。まあ〈枚〉〈本〉〈個〉みたいな区別そのものは恣意的な(通言語的な必然性のない)決まりだけど…そもそも数量詞の故郷は遊離した位置なのかも知れない。だから、連体修飾を軸にする発想だと「一個の林檎」とか「林檎一個」といった「無駄に複雑な姿」しか見えて来ない。
これ言語学というより言語感想ね。タグ付けるけど。