昨日から読んでいるこのサイード特集、20年前のものだけど、どの論考も今読む意義があるものばかりだ。サイードにしても、「オリエンタリズム」とかはある意味どうでもいいというか、彼のパレスチナとイスラエル(ユダヤ)への関わりかたこそが読まれるべきなんだ。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2745
昨日から読んでいるこのサイード特集、20年前のものだけど、どの論考も今読む意義があるものばかりだ。サイードにしても、「オリエンタリズム」とかはある意味どうでもいいというか、彼のパレスチナとイスラエル(ユダヤ)への関わりかたこそが読まれるべきなんだ。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2745
シオニズムが英語では Zionism で、あー、そういえばボブ・マーリーが Zion ってめっちゃ歌ってたなとおもいだした。ラスタファリ運動でのザイオン(シオン)はエルサレムではなくてアフリカ(たぶんエチオピア)らしいけど、具体的などこというか、「神が故郷をうしなった者に約束した土地」なんだな。
1966年、ハイレ・セラシエ1世がジャマイカに来訪。ラスタファリアン達は熱狂的にセラシエを歓迎した。ここでセラシエは、「ジャマイカ社会を解放するまではエチオピアへの移住を控えるように」という内容の私信を主なラスタ指導者に送った。これによって、「ザイオン(アフリカ)回帰よりバビロン(ジャマイカ)解放」という新しい考えが定着し、どこか世捨て人風で厭世的なラスタ達を、社会へ参加させるという思わぬ効果も現れた。
いまさらだけど、バンクシーの花束のやつは石を投げるサイードか
https://twitter.com/TariqAli_News/status/1713184683582713915
レゲエはユダヤ文学的な背景で理解すべきなんだな。
https://forward.com/culture/469877/in-the-music-of-bob-marley-a-deep-connection-to-judaism/
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素材を形成してモノをつくる労働を通じて人間は自己形成する、というマルクス主義的な考えを、フェミニズムが自然支配のイデオロギーだと喝破したのも70年代なんじゃないかな。マルクス主義的な労働観も工業社会での原材料と加工のイメージだし、近代的なデザインという活動も素材を制御する仕組みとして考えられたとおもう。アレグザンダーが「デザインの目的は形だ」と言ったのは、素材を制御するための形式としてデザインが考えられているとおもう。
ハイデガーこそ技術決定論を批判する根拠を考えた哲学者であって、彼を技術決定論者に数える人なんていないとおもうけど...。
テクネーとテクノロジーを区別して、テクノロジーという現代的考えがどこからでてきて、それがいかに古代ギリシャのテクネーと違っているかを検討したのが「技術への問い」で、現代のテクノロジーを巡る思考がどのように機能するか=技術決定論的な思考を批判しているわけで。
このテキスト内では技術という語もテクノロジーという語も区別されていないし、それがなにを意味するか判然としないけど、それをもってハイデガーが素朴に技術を批判したと言ったようなことは、読めていないとしか言えない。
ハイデガーを読めているかどうかはどうでもいいとしても、この記事で言う「経験論的転回」が「テクノロジーのをその使用の経験からよりプラグマティックに考える研究が技術哲学の主流になった」というのは、事実上ただのテクノロジー全肯定のナイーブな見解で、たぶん書き手が文脈追えていないだけだろうという気がする。
https://wired.jp/membership/2023/10/20/series-philosophy-of-technology-1/
@toneji これはマルクスを否定したいわけではなく、 https://pleroma.tenjuu.net/notice/AaxnaxObnHXyMBCiY4 このあたりを想定していたもので、70年代のアメリカで「素材」を巡るいくつかの批判的な思考が登場する、というようなことを考えたくて書いたものです(アレグザンダーはイギリスですが)。彼ら(芸術家やフェミニスト)が検討していたのは、工業社会で成立した思考の乗り越えであろうと思いますが、もうちょっと70〜80年代のアメリカの思考を広く検討してみたい気持ちはあります(とはいえ広すぎて手に負えないところがあります...)。
ちなみに、ここに書いたフェミニズムは、まさにマルクス主義を批判しつつ継承することを目的としたマルクス主義フェミニズムを指しています。
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ハイデガーはもちろん現代的技術を批判するけど、それは技術についての思考がどのように変化したかを通じてそうするので、哲学的な営みとしてやっている。それがサイバネティクス以降に思考に課された仕事なんだと、ハイデガーが言っていることがユク・ホイの出発点だし、思考のあり方についての検討をしているのは、それが哲学であるからだ。
具体的な技術の使用経験なんかはふつうに認知科学がやっているし、その認知科学も80年代にハイデガーを輸入している。
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