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『罪と罰』でポルフィーリイがラスコーリニコフに対して「あなたがやったんですよ」という台詞が、告白という文学的な制度にたいするアンチとして成立していたんだということに、いまさら気付いた。

「閉じた内面」というものがあって、それが他者から見えていないから、文学における「告白」という仕組みは成立しているんだけど、『罪と罰』がラスコーリニコフの「私がやりました」という告白を物語の焦点としながら、いきなり他人から「あなたがやったんですよ」と、自分しか知らないはずのことを告げられる。内面はなにも隠れていなくて、外部に露出してしまうと、告白になんの意味もなくなる。

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ドストエフスキーの人物、つねに他者が自分の知らない自分を開示する鏡として機能するようになっているんだけど、それは「隠れた内面」というものがあるのではなく、他者との関わりのなかで、自己の多面性が発見されていく、という形になっている。人と関わらなければ発見されないような自己の多面性があるとおもう。
それと比較してみると日本の近代文学ってめちゃくちゃ告白的であるなとおもう。いやまあいまさらながら小林秀雄が言っていたことを繰り返しているだけなんだけど(ヨーロッパの「私」は社会化されているが、日本の「私小説」における「私」は社会化されていない)。

00:31:09
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セカイ系...

00:43:52
2023-10-13 00:08:59 𝙎𝘼𝙋𝙋𝙊𝙍𝙊 𝙋𝙊𝙎𝙎𝙀の投稿 sapporo_posse@fedibird.com
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00:51:48
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明治からずっとセカイ系文学じゃんって気になってきた

05:06:38
2023-10-12 20:50:35 David Beazleyの投稿 dabeaz@mastodon.social
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23:16:56
2023-10-13 22:10:31 はしもとの投稿 biotit@fedibird.com
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23:26:24 23:28:47
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見てきた。地主さんの映像が多声的でよかった。「女性」という枠組みのなかで見るといくつかの作品はミスリードになりそうだなという感想もあり、無理に「女性」という主題でまとめなくてもよかったかもとは思った。
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Women’s Lives 女たちは生きている―病い、老い、死、そして再生 on Strikingly