飯田豊さんの『メディア論の地層』すごいな。もっと早く読んでおけば良かった。
万博前のマクルーハン旋風のなかでクレメント・グリーンバーグの紹介なんてするわけがないんだよな。いやしてたんだけど、重要なものに見えるはずがない。
環境芸術論として受容されていったマクルーハン系の議論を一方に置いてみると、風景論も見えてきそうな
そういえば「強いフロントエンドエンジニア」みたいな言い方が嫌だったんだけど、あれ本来は「フロントエンドに強いエンジニア」という技能的な得意領域を表す表現が、「強いフロントエンドエンジニア」という言い方ではひっくりかえってしまっていて、技能を形容するのではなく、その人を形容するようになっている。なんでそんな言い方がでてきたかっていうと「技術力」のような概念をドラゴンボール的な戦闘力で表現したい、みたいな欲求だなとおもいあたった。技術力という概念には中身がまったくないんだけど、転職市場のなかでなんとなく生まれてきた概念だとおもう。
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なるほど、これいろんなところにありそう。
4年生になると現場と結びついた実践的なことを学んでいる学生の率が高まる一方で,社会問題や政治・選挙への関心は薄まるとのこと。
最近の教職課程では,授業の技術に加え,トラブルへの対処や保護者との付き合い方など,いわゆる「ハウツー」に重きが置かれると聞きます。早い段階から実習の機会も用意されるのですが,紅林教授によると,そのことが「未熟な自分と経験豊かな優れた教師」というフレームを形成し,学生は物言わぬ従順な教師へと仕向けられるのだそうです。
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かなり読ませる内容だった。
“本来ナショナリズムは、諸外国に対しては日本の固有性(文化と伝統)を誇示しつつ、地域と階層を越えて国民国家形成を進め、内なる平等を目指すはずのものでした。しかし、新しいナショナリズムは、本来日本の一部であるはずの沖縄やアイヌ、あるいは性的マイノリティなどを「敵」と名指し、「普通の日本人」との間に境界線を引こうとします。そのナショナリズムは現状の国民統合や歴史認識を受け入れるのではなく、異議を唱えます。”
“新しい愛国者たちは空虚な主体です。特定の主張(愛国主義や天皇への忠誠)があって敵を批判するのではなく、敵を名指すことによって初めて「我々」が生まれるからです”
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ハラウェイの『生産と再生産の理論』(『猿と女とサイボーグ』)を読んでいてけっこうおもしろい。類人猿研究の理論がどのように形成されてきたかという科学史的な論考なんだけど、性差がかなり重要な役割を演じており、オスの攻撃性が社会秩序を形成するとか、月経周期が規則的な性交渉を可能にし管理機構が必要になったとか、そういう仮説が類人猿研究の領域ででてきた。研究者たちは、本能が形成する家族という最小社会単位の原型を類人猿のなかに見ようとしていた。みたいな話で、そうすると、それと区別される形での人間とはなにかというのも問題になってきて、オスによる狩猟、メスによる採集というパターンがあったとかそういう話になってきたりする。
ハラウェイが書いているのは、類人猿研究の領域でそういう理論が形成されたという話だけど、そういえば先日、狩猟採集分業説は間違っていたぞというのが記事になってたのを思いだした。これ民族学と書いてあるけど、人類学と類人猿研究が地続きで、完全におなじパラダイムにのっているんだな。日本だと今西錦司方面がまさにそういうことをやってきたけど。
https://karapaia.com/archives/52323768.html
進化論的な図式のなかでは、人間が自身を見るための鏡として、類人猿(過去)と人工知能(未来)というのがあるんだろうなーとおもいながら読んでる