今日(というか昨日)のカルチャー活動はこれでしたが「おれにも喋らせろ」みたいになってしまう
https://scool.jp/event/20231015/
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技術による知覚の拡張という話、いろいろ慎重に考える必要があるようにおもわれる。たとえば、眼鏡とかを考えてみると、眼鏡は視覚を拡張するものではなくて、規範化された視覚というものがあり、社会がその規範性をベースに構築されているから、眼鏡によって適応する。つまり「新しい視覚」を獲得するために眼鏡をしているわけではなく、「あるべき視覚」にたいして現在の身体が欠如しているから、それを補うために眼鏡をする、ということになっていて、知覚の拡張どころではない。おなじような話はコンピュータにもあるはずだとおもう。
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自動車の運転免許には視力の要件があり、裸眼ではなく眼鏡をかけて免許更新する人は多いとおもうけど、視覚が規範化されている典型的な例ですよね。一定の規範的な身体をベースに、社会のほうが構築されている。
技術というものが更新するのは、こういう規範性なんだろう。写真はまるで自然そのもののようなものとして現れてきたが、それがつくりだしたのも「ものはこのように見えるはずである」という視覚の規範で、その規範性が理解できない文化の人には異質なものと映っていたはずだ。ある文化が写真を受け入れるというのは、写真的な表現における規範性を受け入れるということだ。
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今日というか昨日、ベンヤミンの話ちょっとして、たしかに、複製技術時代より歴史哲学テーゼのほうが哲学的にはおもしろいとおもうけど、アジテーターとしての側面は後退しているんじゃないかな。歴史を逆撫でするのも重要だとおもうけど、資本を直接占拠しようぜ!みたいな話はなくなってるんだよな。
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@gon_gitsune 七里圭さんの「シネマの再創造」は見にいったので、その振り返りとしてなのですが、個人的には不満ののこる内容でした
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@gon_gitsune 単に話の展開として不十分だった、という感じですね。
「面」の変容とかも、版の世界では原版から印刷するのに押し付ける必要があるから平面を必要とするが、デジタル世界においては面は一次元情報を展開したものが平面になり、やろうとおもえば平面を一次元に出力することもできる。つまり平面は偶有的な問題にすぎなくなったのですが、そのへんが適切に議論されず、風呂敷広げたはいいが途中がまったく繋がっていない、という感じです。
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ていうか、芸術は自然の模倣みたいな観念のほうがかなり時代特殊的な観念だと思うし、芸としてのモノマネとかもなくなるとも思えないかな。
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そもそもチューリングが考えていたのが「模倣ゲーム(モノマネゲーム)」じゃなかったっけな。そのパラダイムは変わっていない気がする。
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