This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
いくつかのテキストを読みなおして、マティスのなかで晩年のロザリオ礼拝堂とか切り絵とかを礼賛するむきがあるのは好きじゃないな。初期のほうが断然いい。
This account is not set to public on notestock.
シャルル・ブラン『装飾芸術の文法(Grammaire des arts décoratifs, décoration intérieure de la maison)』
https://archive.org/details/grammairedesarts00blan/page/n7/mode/2up
マノヴィッチの読書会、あしたあります。まだ全部読めてない。
未読でもOK!【オンライン開催】レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』読書会 第1回
https://humanities.connpass.com/event/292482/
間違ったことを言ってはならないのはある意味で「その通り」なのよ。なんせ間違ってるんだし、別に仕事での多少のミスとかなら間違えてもいいけれど、差別発言とかそういうのは「絶対にしてはならない」こととされているので。①絶対にしてはならないことなので間違えることが許されない。②他方で差別については特定の答えを覚えてそれを機械的に適応するだけではなく、常に問題を考え続け学習を続けていく必要があるのだが、③学習するには安心して間違えられる環境が必要で、④SNSはそのような場所になってないどころか、逆に学習を阻害する要因が強い、っていう。
This account is not set to public on notestock.
間違いを許す社会も大切なのだと思うけど、「自分の言明は真実そのものである」と疑わない態度もどうにかならないかな。「xxは科学的に正しい」とかもこの言説の一種だけど。
This account is not set to public on notestock.
誤りも時と場合によっては「許される」ことがあってもいいのかもしれないが、それって誤りをした側に「学び」があってこそ報われる話だし、されたほうが必ず「許す」必要もないよなっていう。
ちょうどハートストッパーでベンがチャーリーに謝罪するシーンがあって。ベンは自分がしたことが悪いと認めて謝るんだけど、それを一応は聞いてチャーリーが「それがいかにひどいことだったか」をベンに伝えるんだよね。「過ちを認められたのは結構だし、同じことを他の人にしてほしくないとは思う」「でも、そうやって改心した場を見たいとは思わない」「二度と会いたくない」っていう。
コペルくんが友人に対して負い目を負うようなことがあって、それに悶々としていたところ、おじさんから友人に許されるかどうかは問題ではない、自分の過ちを認めて謝罪することが重要なんだ、と諭されるところ。
コペルくんが自分の過ちを認めるには、友人関係から疎外されているという意識が必要だったけど、SNSってそもそも最初から疎外されているから、謝罪する意味が感じられないんだろうな。
とはいえFediverseやってない人に個別の鯖名言っても通じないから「Mastodonやってます アカウントは@makihara@fedibird.comです」って言った方が通じる
天野知香『装飾と「他者」』はおもしろいんだけど、概念的な検討が過剰でうーんってなる。概念的な性格は読みにくさにもつながっていて、どこに向けられたテキストなのかもわかりづらいなと思う。この主題で歴史を探求しているひとを他に知らないから、貴重な書ではあるのだけど。
植民地主義、ジェンダー、他者となるともっと政治的であっていいとおもうんだけど、批判対象がはっきりしないまま脱構築を主張していて、それがずいぶん観念的に見える。近代において「装飾」が植民地と女性に割り当てられてきた、とする論点は歴史研究としてかなり卓抜だとおもうだけになんかもったいないと感じてしまう(なにさま)。