テレビをつけるとG7広島サミットのニュースをしている。何よりも岸田の自信に満ちた得意げな顔が象徴的だが、嬉々として西側世界の尖兵を務めようとする我が国民の幼稚な好戦性を目にして暗澹とした気持ちになる。広島の核惨禍の記憶すらも大日本帝国の加害性を忘れる口実としてのみ機能しているように見えて憂鬱きわまりない。
野良仕事も DIY も現実逃避だと分っているが、ほかに何が出来るだろう。信仰か。そうだな。
テレビをつけるとG7広島サミットのニュースをしている。何よりも岸田の自信に満ちた得意げな顔が象徴的だが、嬉々として西側世界の尖兵を務めようとする我が国民の幼稚な好戦性を目にして暗澹とした気持ちになる。広島の核惨禍の記憶すらも大日本帝国の加害性を忘れる口実としてのみ機能しているように見えて憂鬱きわまりない。
野良仕事も DIY も現実逃避だと分っているが、ほかに何が出来るだろう。信仰か。そうだな。
日本で「人を動かす」のに論理、理屈は要らないんですよ。自分は正直「論理が強い」ほうだし、そもそもがあらゆる不公正、不均等な勾配ある交流ルールの中で、それでもまだ一番マシなコミュニケーションが論理だと思っているので、論理でやりたい。やらせてほしいのだけれど、この国で「それ」は無理です。そんなことよりも相手に何かしらの恐怖や面倒を感じさせたほうが、動いてもらえる。というか、そうしないと動いてもらえないという現実がある。
"江戸時代の人間は、「道理だ」という体制側の納得を求めて、自分の主張するところの一々を、体制側の論理に合致させるという作業をするーーだから、非常にもって回っている。「簡単に言って通る」などという心得方を、論理を提出する側がしていない。「ただの自己主張は愚かで、社会を覆う大本の論理に合致しなければ、論理は論理として機能しない」という実際的な考え方をしている。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2205
だいたい日本で、まともな話を通そうと思ったら、戦略は2つしかない。1つは欧米人化。日本のことなんぞ知ったことか。どこまでも欧米的に「なんで?」「根拠ないじゃん」「自由じゃん」で堂々と貫いていく。ムラから何思われても「マジどうでもいいわー」。言いにくいからと遠慮なんかしてたら殺されてしまうのだから。
もう1つは田舎人化。相手以上に強情な、聞いても何も理解してないで押し通す。相手の説明なんぞ聞いてない。っていうか、聞いた上で「うわー、めっちゃ勉強になりました。なるほど! わかりました。同意です」ってとりあえず言ってから、あとはどこまでも自分がやりたいことをやりたいようにゴリゴリとしつこく押していく。
どっちもできない中途半端のいうことなんか聞いてくれるのはネットだけ。SNSで元から相互の仲間に「ほんとだよね」と同意されて、だから、それで何なのか。
「言いたいことはきちんと言う」「言わなければいけないことはきちんと言う」「通じるまでできるだけしつこく粘る」の訓練、自分は毎日かなりやってる。じゃないとストレスで死にそうになるから。
今日もねこを動物病院に連れていったのだけど、アプリで朝6時から予約していたにもかかわらず、通知が来ず、突然診察が回ってきたため出られなかったので、「アプリだけで確認せず、電話もかけてきたらいいじゃないか」と言ったら「申し訳ありません」と言うので「怒ってるんじゃなくて、今度からそうしたほうが世界のためだと思う」って言った。
少し長くなってしまうが、大変重要なので引用する。
"『義経千本桜』は、その花やかな見せかけとは裏腹に、かなり理屈っぽい。しかも、その理屈の質が、我々の知る「論理」とはかなり異なる。我々の知る「論理」は、それ自体で「論理的整合性」を成り立たせていなければならないものだが、江戸時代の論理はそういうものではない。社会全体を覆う常識と合致して、「であればこそこの考え方は正しい」という結論を得る、「道理」という質の論理なのである。"[浄瑠璃を読もう] [橋本治] No.2188
橋本治が、江戸の世は論理ではなく「道理」で動くと喝破していて、首がもげそうになる。江戸どころか、今も、日本のメンタリティは論理ではなく、道理で動いている。道理を「わきまえない」人間が「自分勝手に」(道理の世界に住む人間からはそういうふうに見える)繰り出しただけの論理など、ただのワガママ、自分勝手にしか見えないのだ。そういう世界に、多くの「日本人」はまだ住んでいる。そのことを前提にした上で話を組み立てないと、話が通じないのだ。要するに「論理を使わず道理で道理に論理が道理だと受け入れさせる」をしなければならないということだ。で、どうやって?
"思考の大筋が決められている社会で「独自に主張をする」ということは、「治安を乱す可能性を持った不穏な考えを広める」ということになりかねない。だから、この時代の人達が「新しい考え方」を訴えるとなると、「この考え方は、既定の考え方にかくも合致している」という論証のしかたをしなければならなくなる。それがつまり「道理」である。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2199
徳島来てから、正直毎日「そんなの」と戦っています。日本全体が「そんなの」なんだけど、四国はやっぱり東京と比べて「そんなの」の強度が桁違いですよ。森は絶対に自分の意見を言うんですよ。でも、絶対に聞こえないフリするし、聞こえても理解できないフリするし、それもできないとなると「いやー、おかげさまで理解できましたあ!!」と言いながら、理解してない言動を続けるのよ。それをグイと強く止めて「わかってねえみてえだな!もっかい言うぞ?!」と、こちらも相手がわかる=「こちらの要望通りに動く」まで力での押し合いをしないとダメなのだ。
日本で、相手の意見を否定するには、別に真っ向から主張を返す必要などまったくなくて。ただただ「聞こえない」フリをすればいい。聞こえないフリができない場合、次にとるのが「理解できない」フリで、これでもスルーしにくい場合は「理解した」フリ。この「理解したフリ」が一番曲者で「ああ、わかってくれた」とこちらも安堵するし「わかっている」と言っている手前、「本当か」と詰め寄ることもできない。「わかってくれたらいいんですよ」と安堵したその隙に「全然わかってない」返答で押し切られるのである。
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キイロスキィ少佐が孤軍奮戦するカタヅケ方面戦線、熱に浮かされながらの必死の鼓舞にも関わらず、みんな無理無理って笑いながら諦めてて面白かった。
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「させていただく」という言い回しが大嫌いだ。
もう何度も言っている気がするので少し気が引けるが、定期的に言わずにいられない気分になる。
この表現は、ある行為について上位者の裁可を得てする、という意味でしょう?字義通りに解釈すれば。
しかし、はあ?誰が許可したの?と苛つかせられる場合が多すぎる。
「させていただく」とさえ言っておけば、どんな行為であっても責任を逃れられると思っているようだ。自分には事の善悪は分らない、判断したのは上位者だ、権限を持たない私に文句を言ってくれるな、と。
これが酷くなると「○○と思わせて頂きます」「○○と感じさせて頂いたところです」となる。
笑い事じゃない。私は何度も耳にしている。あなたも気を付けて聞いていてご覧、きっと思ったより多くの人が言っているよ。
> 普通の日本人、政治とか抜きにしても批判どころか意見を述べることすら最近は忌避し始めている
自分の身を守るためにはそうするのが最適解だと学習してしまったということなのだろうね。
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キューバに住んでた室越龍之介さんが、
「社会主義共産主義がうまくいかないのは競争がないからじゃない、競争がないと人間は働かないというのは人間観がおかしい、うまくいかないのは、自由がないからだ、人が自由に動き回る余地が消されるからだ」
と言ってて、なるほど、と。
うまくいかないのは競争がないからじゃない、自由がないからなんだ
なるほどー
https://open.spotify.com/episode/2ZiWA0i8kyfWRqSzLw0Lf4?si=Oi5xenEhQU-Gmwv6wZj_3w