国際シンポジウム デジタル時代における人文学の学術基盤をめぐって
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/kibans/sympo2018/
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ヴィーコ『新しい学』に関して本日問題になったfilosofia dell'Autoritàの箇所は今確認したら1730年版には存在しない文句でしたね.talche ... autoritàの句は30年版のCs本には加えられている模様.
久しぶりにのらきゃっとさんの配信見られている(ここ最近忙しかったり時間合わなかったりであったので)
「哲学Filosofia」の探究対象は永遠普遍の真理であって個別的な事実・事象ではないはずだが,その哲学が「諸民族の始祖作家たちgli Autori delle Nazioni」という普通なら「文献学Filologia」の対象となるものを取扱う点にヴィーコの呈示する『新しい学』の新しさがあり,それをよく示している箇所.
してみるとFilosofia dell'Autoritàは――どう翻訳してもうまくはあてはまらないのは前提として――「古代作家の哲学」という清水・米山訳の方が私にはしっくりくる感じがある.もちろんそれは古代の文物の権威を読み解くという意味で「権威の哲学」(上村訳)でもあるのだけれども.
いずれにせよtalchè per quest'altro principale suo aspetto viene questa Scienza ad esser'una Filosofia dell'Autoritàの句は節冒頭のAutoriと関連付ける形でAutoritàという語を持ち出して自身の「新しい学」を言い換えた重要な追加点と言えそうかしら.
17世紀のフランスには自分たちの時代と古典古代とを比べてどちらが優れるかという所謂「新旧論争」というのがあって――この論争については中公バックスの「私のヴィーコ」の中にも少し書いてある――結局新派が優勢になるのですね.それは古い時代の迷信や錯誤に満ちた遺物を切捨て進歩を信じる考えとして近代につながっていく.他方ヴィーコは結局そういうものを切り捨てない路線をとっていてその点でデカルトへの批判という立場になるわけだけれども,だからといって単なる歴史的事実の収集や博識と雄弁の追求に終始するのではなく,むしろ哲学と文献学の合一を目指したところに大きな意義がある.
もう少しフランクな話をしても,歴史や伝統を重んじることと進歩を信じ自分たちの現在・未来を肯定することとは往々にしてぶつかってくるからねぇ…
「大地の下の気息が地震を起こす」という説は地震の原因としては間違っているし真か偽かという尺度からすれば一笑に付して棄て去るべき謬見かもしれないが,古代人が抱いた世界観のひとつという歴史的事実として見れば興味深く記録にとどめたいデータなわけだ.
https://gnosia.info/@ncrt035/99987716161867060
#reledmac で「テクスト批判資料apparatus critici」のような複数段に分かれた高度な註をつける.
本文中のhogeという箇所に対してfugaという内容を1種類目の註として書く場合,
\edtext{hoge}{\Afootnote{fuga}}
と本文中に書き込む(既述の\beginnumbering...\endnumberingで挟んで行番号カウントをしておく必要があることと,註内で行番号を反映させるため2回タイプセットする必要があることに留意).
註の種類は\Bfootnote, \Cfootnoteとして切り替えて管理できる.
こういう具合に本文は一段で,註が二段組というのは昔の本には多くてよかったけど最近は技術的に面倒ということなのか巻末中方式が多い.
註の中身にはR.C.Jebbの『オイディプース王』のものをそのまま流し込んでみた.