古典作品の本文の読みが分かれたときの考え方としてdifficilior lectio potior《難しい読みの方が優れる》というのがある.
筆写によって書き継がれてくる過程では難しい表現がより簡単で一般的な表現に置き換わることはあってもその逆は起きにくい,という想定に基づくためで,基本的なスタンスとしては妥当なのだけれども,場合によっては読みがより難しい方へ変化してしまうケースもなくはないので慎重さが求められる.
古典作品の本文の読みが分かれたときの考え方としてdifficilior lectio potior《難しい読みの方が優れる》というのがある.
筆写によって書き継がれてくる過程では難しい表現がより簡単で一般的な表現に置き換わることはあってもその逆は起きにくい,という想定に基づくためで,基本的なスタンスとしては妥当なのだけれども,場合によっては読みがより難しい方へ変化してしまうケースもなくはないので慎重さが求められる.
この読みの変化の問題について心理学・精神分析を結びつけて面白い議論をおこなった著作にティンパナーロのLapsus freudianoという本があるのを思い出した(だいぶ前,まだイタリア書を買う手段をちゃんと持っていなかった頃に英訳で読んだ記憶がある).
フロイト『日常生活の精神病理学』が取り上げられるのだけれど,今の話題に関連して面白い記憶違いの例が説明されている.
フロイト自身のエピソードとしてSignorelliという画家の名前が思い出せず代わりにBotticelliとBoltraffioという二人の別の画家の名前が出てきてしまったケースが語られている.
前者は-elliの部分が似ていることにより,より有名なBotticelliが出てくる「平凡化banalization」現象.このBotticelliが正しくないことは判るがそこから正答を導こうとした結果,「誤った改善disimprovement, Schlimmbesserung」によりBo-の部分からBoltraffioというよりマイナーな名前が出てきてしまう.
何かこうなってくると誤記や写し間違いというのも,真正な読みを失わせる迷惑現象というよりそれ自体として興味深い研究対象になってくるし,何なら筆写者の個性や精神構造にまで関心が向いてきてしまう.
少し文脈が変わってしまうがHeadlamがスコリア研究について言っていたこと(https://gnosia.info/@ncrt035/662 )も思い出されてくる.
引用などを記憶頼みでやって間違える現象は自分で経験することができるので面白い.前はこういうことがありました.|「『あの羽は飾りなんだよ重力は天使に関与できないからね』(木下龍也)が正しい歌なのだが,何も見ずに引用しようとした結果,『関与』を『干渉』にしてしまった.
図らずも,記憶に頼った引用で読みが変化する現象を自ら実験することになった.」
https://twitter.com/ncrt035/status/884982624531492865
そういえば歌会などで集めた歌を読み上げ各自が評を加える際に,手書きのものを読み上げるので読み間違いが発生して,しかしむしろその読み間違った方が作品として優れるというので改められる「偶然の添削」現象というのについて何かで読んだ記憶がある(記憶違いでなければ).何で読んだんだったかしら.
冨山さんの暴論で吹っ飛んだ感じだけど過去記事を遡ると国立大学法人化について京大総長「法人化は失敗」と東大学長「法人化は必然」で異なっているのがおもしろいな.
http://kyoiku.yomiuri.co.jp/torikumi/jitsuryoku/iken/contents/40-2.php
http://kyoiku.yomiuri.co.jp/torikumi/jitsuryoku/iken/contents/41-1.php
📰 731部隊の構成全容明らかに 国立公文書館が名簿開示 : 京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180414000132 #京都 #kyoto