このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
回ってきたので読んでる.法律そのものだけでなくその解釈の積み重ねの理解も必要になる,など法解釈についての話もわかりやすく書いてあってよいと思った.
ルータやスイッチは日本の法律上、通信の秘密を侵害するが違法ではない:Geekなぺーじ
http://www.geekpage.jp/blog/?id=2016-8-2-2
《剽窃者》という意味でウェルギリウス批判に用いられるcompilatorについてももう少し調べたいね
私のマストドンへの登録日は2017年05月17日(水) 23時13分44秒です。登録してから11ヶ月経過しました🎉 #MastodonBirthday https://mastodon-birthday.herokuapp.com
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
古典期の規範から逸れたり時代状況に合わせて新しい語を作ったり取り入れたりして変化していた限りにおいてラテン語は「生きた」言葉であったのであってルネサンスにおける古典の復興がむしろラテン語の息の根を止めた,といういささか皮肉な考え方もありうるのでややこしい…
ロレンツォ・ヴァッラ『ラテン語の典雅について』もラテン語という古代の栄光ある言語の再興といいう目的をそのひとつとしてもち,古典作家の語法を確定しようという厳密なラテン語研究の始まりとなるものだった.
「規範に照らした正しさ」があって始めて「修正emendatio」――すなわち「間違いmendum」を取り除く行為――が根拠づけられるわけで,ヴァッラが『コンスタンティヌスの寄進状』の真正性を否定しえたのもそうした見地からの文献学的な考証を行ったからこそという面がある.
一方で規範の存在は束縛や硬直を生みうるわけで,ラテン語の特に散文に関してはすでに古くからキケローを格別の範とする「キケロー主義」が唱えられ促進されていた面もある.
アンジェロ・ポリツィアーノはこうした動きには反対の立場で,「ある人が『あなたはキケローを表現していない』と言う.それがどうしたというのか.私はキケローではないのだから.だが思うに私は私自身を表現するのだ」と言っている.
”Non exprimis” inquit aliquis, "Ciceronem". Quid tum? Non enim sum Cicero. Me tamen, ut opinor, exprimo. (Epist. VIII 16)
当のポリツィアーノのラテン語文体はというと様々な作家から語彙や表現を取り入れときには造語も厭わない性格のものでした.ポリツィアーノ自身の書簡(Epist. I 1)を読んでも面白いし,『雑録Miscellanea』における文体についてはS. Rizzo, 'Il latino del Poliziano', in V. Fera & M. Martelli (eds.), Agnolo Poliziano: poeta scrittore filologo, 1998, pp. 83 - 125に論じられている.
https://twitter.com/ncrt035/status/806322954690641920
キケロー主義の側のひとりであるピエトロ・ベンボは,俗語(=イタリア語)に関してはペトラルカとボッカッチョを範とせよという考え方の人で,両言語での規範意識にどういう関係があるのか気になりつつちゃんと調べることが全然出来てない…
あとエラスムスはキケローをむやみやたらにありがたがって模倣する潮流を皮肉って『キケロー主義者Ciceronianus』なる著作をしていてこれも読んでみたいところ.
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。