T字カミソリって普段使ってるときは「これで怪我するとか間違ってもあり得んだろ……」とか思うのに、忘れた頃に油断してがっつり流血するからきらい。
T字カミソリって普段使ってるときは「これで怪我するとか間違ってもあり得んだろ……」とか思うのに、忘れた頃に油断してがっつり流血するからきらい。
例え資格が無かろうと、独り身は寂しいし、惚れることもあるから困りものです。
実のところ、今までも別の人を好きになることもありました。本命を忘れようとした時期もありました。もう一生独り身で良いと開き直ろうとした時期もありました。しかしいずれも、あまり積極的にはなれませんでした。そんな風に右往左往して、交際経験すら無いまま十余年が経過しました。
ミーの一番好きな人は、小中学生の頃の同級生です。いつから彼女が一番なのかは分からないけれど、遅くとも小6から、現在に至るまではずっと彼女が断トツ本命です。
そんな本命を未だに諦め切れず、最近になって色々と聞き込みをしたところ、彼女は結婚したと分かりました。こうなればいよいよ諦めるしかありませんが、別の人と交際したとしても、究極的には本命を優先するのは目に見えています。本気になんてなれません。こんなミーに恋人を探す資格はありますか?
ミーが死んで悲しむ人が全くいないとは思わないけど、それは所詮「同級生Aの死」「後輩Aの死」「フォロワーAの死」であって、かけがえの無い死では無いのだよな。
この世にミーしか果たせない役割は何も無くて、死ですらその例外では無い。
ミーにとってもかけがえの無い人はいない。
最近やたら承認欲求という言葉が多用されていて、そりゃ確かに承認欲求が満たされない人もたくさんいるだろうが、その内の半分くらいはそれ以前に「所属と愛の欲求」が満たされてないんじゃないかと邪推してる。
そもそも、マズローなんて昔の人だから、現代でも通用する学説なのか知らないけど、あえてマズロー風な見方をするなら。
基礎研究の重要性は分かるけど、それはそれとして、ミーは直ちに社会に影響を与えるような下流工程寄りのことをやりたいなあという漠然とした思いがある。短気なので。
でも、具体的に興味あることを並べてみるとだいたい上流寄りになるし、能力的にもそっちの方が適性ある気がする。
罪が露見したときの対応がおかしいせいで余計誤解される。これに関しては気質よりスキル面の問題だから改善の余地が大きいし、ミー自身も損しかしてないので、開き直らずちゃんと改善したい。
全人類の幸福を祈ってるし、罪を犯すことに対して人並みの罪悪感はあるつもりだけど、その抵抗を遥かに上回るほどの欲求があって、自制心は弱いので、結果的にとんでも無いことをやらかすことはしばしばある。そして、自分自分もうその気質については半分開き直ってる。
ただ、あくまで「平気でやってる」という訳では無いと理解してもらった方がみんなハッピーになれると思う。ミーの普段の言動からこの不可解な行動原理を推察するのはまず無理だろうから、変に幻滅される前に予め表明しておく。
その上でミーの言動やこのスタンスを非難するのは各人の自由だと思うし、それに反撃する権利がミーにあるかは知らない。あろうが無かろうが、やっぱり開き直って勝手にやるだけである。
個人的には確率という要素を重く見てるから、「『能力を直接測定→能力から将来の成果を推定』を志向すべき」としたが、諸要素の比重によっては「過去の成果から将来の成果を直接推定」が最も高精度になりうるかも。
まぁ、細かいこと言うと確率以外の要素と確率の比重なんてナンセンスだと思うが、その辺は適当に。
能力を正確に測定できる場合に、報酬を能力と成果どちらに基づいて決めるべきかは難しい。インセンティブとしての側面を重視するなら前者だろうし、報いとしての側面を重視するなら後者だろう。
今のミーの感覚からすると後者の方が自然だが、前者の方が人類は豊かになるだろう。
なんとなく、刑罰の教育刑と応報刑の考え方に似ていておもしろい。
ちょっと論点は変わるがもう少しプラクティカルな話としては、個人的には成果と能力は分けて考えるべきだと思ってる。
成果には能力以外の色々な要素(確率とか)が絡んでくるから、将来の成果を予測、最大化したいなら、本当は「過去の成果から能力を推定→能力から将来の成果を推定」では無く、「能力を直接測定→能力から将来の成果を推定」を志向すべきだと思う。ただ、現状多くの分野では前者より高精度に能力を推定する技法が無いだけで……。
また、成果予測以外の観点(過去の貢献に対する報酬など)では、理想的な状況においても、過去の成果を参照する意義はある。
人間社会の各個人に対しては、報いは努力や苦労ではなく、社会への貢献度に応じて与えられるのが正義かもしれない。
では、人類全体に対しては、理想的にはどうあるべきであって、また実際はどうなのか?
人類はこれだけ苦しんで頑張ってるのになんで報われないんだろうか。創造主は何のためにこのように世界をお作りになったのだろうか。もし創造主がいないならば、何のために世界はかくあるのだろうか。
未だにこの疑問について納得行く回答を見たことは無い。
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すでに100万人が言ってるようなことでも、改めて「ミーもそう思う」と表明することには意義があるのです。きっと。
何せ当事者が強者側だからあまり問題にされないし、殊更にそうすべきだとも思わないが、社会的強者と社会の間にも色々な種類のバリアはあるように感じる。
https://novelskey.tarbin.net/notes/9scptwsnk3
そういえば太陽の所有権主張した人いたな……。 https://www.afpbb.com/articles/-/2776850
このアカウントへの絵文字リアクションは、 https://mastodon.cloud/ やFedilabからはお気に入りに見えてる。Fedibirdみたいな絵文字リアクション対応のサーバーから見ると絵文字に見えるが、一部ユーザーからのリアクションが見えない。さて、どうしたもんだか。
「乳首だけでイける」より「日常生活に支障を来たす」の方が先だよね。
http://webcatplus.nii.ac.jp/
いつの間にか終わってた。
「日本人はお上の決めたことを自然に受け入れる」みたいなことはたまに言われる。一方ミーは、お上を通り越して、神に、自然に、延々文句を言っている。
いっつも「AならばB、BならばC」みたいなことばっかり考えてて、肝心のAの真偽には興味も無いし検証もしないので、一向に知見が得られない。
自身の利益のためなら手段を選ばない人間は、自然状態だとほぼ確実に社会に損害を与えるだろう。しかし、法や経済など色々ものが発達した現代社会においては、大きな利益をもたらすことすらある。不思議だ。
目指すべき理想とか、そこに行き着くための最適な方法とか、とにかく色々なことが行為主体に依存しないという単純化はぼちぼちやめても良い時期に来ていると思う。倫理的にも、経済的にも。技術もそれに対応できるほど進歩してきたしね。
あくまで損得勘定の話。
人として必要最低限のことすらできない人材Aと、普通の人材Bがいて、どちらかを雇うとする。このとき、Aのサポートに別の誰かを費やすことによって、トータルでBを雇うよりも高い生産性を発揮するならば、Aを雇う意義はあるよね。
ただ、たいていはその仮定が成り立たない(と雇用主が考える)だけで。
可能な限り全てから逃げると、最終的に自分自身と不毛な戦いを永遠に続けることになるんだよな。自分自身からは逃げられないから。
@vegetableice ミーもそう思います。それはそれとして、どうも世の中には、日々の暮らしの中で自然と生きがいを見つけることができる人がいるようで、それを見るとどうにも嫉妬してしまいます。もちろん、その人にはその人なりの苦労や悩みはあるのでしょうけど。
「何が楽しくて生きてるの?」みたいな定型文はあるものの、実際のところは「何も楽しくない。死ぬのが怖いから生きてるだけ」という人が大半だと思っていて、ミーもそのスタンスで通そうと諦めていた。それによってある種の平穏を得ていた。
しかし、どうも最近周りを見てるとそうでも無いような気がしてきた。中途半端に希望を与えられて辛いし、嫉妬するのも辛い。こうなってしまった以上、もう一度諦めることもできない。前に進むしか無いが、どこが前かも分からない。
色々やるべきことはあるのだが、とりあえずまずは今ここにある精神的苦痛を和らげたい。これと同等、あるいはそれ以上の苦痛が年単位で続くことはとても許容できない。
……というのを数年前から言っている気がする。数年前から変わったのは、「カウンセリング、精神科に行く」というカードを切ったことぐらいか。
他人に頼ること、手札を減らすことなどへの抵抗感で、なかなかカードは切れない。勇気を出して切ってみても、あまり進展が無く、また気が滅入る。
ずっと絵文字とかスタンプとか使ってこなかったし、カスタム絵文字も絵文字リアクションもやっぱり使いこなせない。
「お前が言うな」と思うことはある。とはいえ、少なくとも論理的な次元では、ある人の過去の言動や経歴によって、特定の発言の真偽が左右されるはずは無い。言い換えると、他の言動を交えて解釈しないと真偽が決まらないような発言は、論理的には不完全である。
しかし、実際はたいていの発言がそうである。その場合、やはり解釈により発言を論理的に完成させた上で真偽を考えるのが妥当か。それが難しかったり、解釈が著しく割れるようであれば、発言者自身に補足を要求すべきだろう。補足の内容次第では余計に紛糾したりもするが。
もちろん、あらゆる発言が論理的に完全であるべきだとは言わないし、完全だとしても、論理的真偽の判断が最優先課題だとは限らない。