老人の言う「若い内に〇〇をやっておくべきだった」という類の後悔は、何をどれだけやったとしても結局あんまり軽減できないんじゃないかしら。
老人の言う「若い内に〇〇をやっておくべきだった」という類の後悔は、何をどれだけやったとしても結局あんまり軽減できないんじゃないかしら。
スマホ画面は何時間でも見てられるのに、パソコンは3時間ぐらいぶっ続けで見てると吐き気してくるんだけど、これもしや眼科案件だったりするんじゃないかと今更思えてきた。
社会への働きかけというのは、それを行う各人の利益の最大化とは一致しないことが多くて、故に他人から強制されると自己犠牲を強いられてるようで苛立ったりする。もちろん、自己犠牲とは違うんだけどね。
この件に関して言えば、やはり理由が無い訳ではないかもしれない。うまく表現できないだけで、信じる理由も否定を信じる理由も疑う理由も膨大にあって、結果的に懐疑に落ち着いたと解釈すべきだろう。
何かを、あるいはその否定を信じるにはある程度理由が必要だが、疑うのにはさほど理由は要らない。少なくともミーの中では。
「人間の幸福追求は非ゼロサム・ゲームである」とか、「現在の人間社会はパレート最適ではない」とか、とにかく「人間社会には改善の余地がある」という類の命題は、様々な議論の暗黙の大前提でしょう。
しかし、ミーはこの命題に対して非常に懐疑的です。とはいえ、例によって特に疑う理由がある訳ではなく、「なんとなく」疑ってるだけです。
無論、これを証明、あるいは反証しようという試みも歴史上無数にあったでしょうから、機会があれば学んでみたいものです。
やす子の「はいー」ほど影響範囲広いミーム汚染もなかなか無いのでは。これから3年ぐらいは「はいー」って聴こえる度にいちいち「やす子?」って思いそう。
https://www.youtube.com/live/AVkaT7uo0EU
ケヘメミィはアゲハントになるか、ドクケイルになるか、それともその前にノホられるか
容姿などを変えることに関して、文化的な障害というのももちろんあるけれど、それ以前に物理的・技術的障害が大き過ぎる。
バ美肉バ美肉言うけど、理想はやっぱ「リ美肉」なんだよな。それこそ「スキン」みたいにお気軽に容姿を変えれるなら、いくらでもやってみたいことはある。
しかし、理想がリアルで現実がバーチャルという皮肉。皮と肉だけに。
ミーのやくざな本性を心の底から愛してくれる人がほんのひとりでもいれば。ミーはその人のためなら何でもできる気がするよ。自信がある。
もちろん、本当に何でもという訳には行かないが、モチベーションの問題は解決する。「がんばればできる」と「できる」の間の障害は無くなる。
須らくミーは素晴らしい人間であるべきなのだけれど、現実が絶望的にそこから程遠い。越えられない壁が数え切れないほどある。
この義務感から解放されることは難しい。
あるいは、目標を実現可能な場所まで降ろして来なければならないが、それも難しい。
後天的に手に入れたものに対する称賛と、先天的に持っているものに対するそれでは、感じる嬉しさの種類が違う。前者で後者の不足を補うことはできない。
誰でも自己研鑽はすべきだけれど、それはそれとして、自分自身の本質の中に強み・価値を持ってる人はやっぱり羨ましい。
「『妙にリアリティのある夢だなぁ』と思ったら実は夢ではなく統合失調症による幻覚だった」という夢を見てメンタル死んでる。
単に自分を幸せにしたいだけなら、どうしても手っ取り早く自助努力に飛びついてしまうよ。それが社会に及ぼす影響なんか気にせず。
どういう目的があるにせよ、社会への働きかけをその手段として選ぶ人は本当に根気があると思う。良くも悪くもミーには真似できない。
杜撰な悪事を見ると、まず最初に「もう少し上手いやり方があるだろう」という感情が湧いてくる。なんかこの感想も色々な意味で間違っているような気もするが。