もう1、2歩踏み込んでほしい
コカ・コーラ社は「知らなかった」でいいのか Mrs.Green Apple『コロンブス』問題 歌詞から推察できるタイアップの問題点(ENCOUNT) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0bcd8e1a456445809e7a154e863b894123de5a7
もう1、2歩踏み込んでほしい
コカ・コーラ社は「知らなかった」でいいのか Mrs.Green Apple『コロンブス』問題 歌詞から推察できるタイアップの問題点(ENCOUNT) - Yahoo!ニュース
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CMというものがまさにその過程を捨象して商品を表面的なイメージ・記号に変換していくもので、そういうのか変わってほしい
都美館でやっている「ずれはからずもぶれ」は「移民」をテーマにした展示で、かなり良かったので、見に行ける人はぜひ(入場無料)。
在日韓国人3世で韓国人と結婚して韓国に移住したハ・ジョンナムさんの作品は、和紙と韓紙を重ねた切り紙で、日本語とハングルを配置している。ご本人の説明を聞けておもしろかったけど、日本で習得した韓国語が向こうではかなり訛りがあるように聞こえるというか、教材の作られた時代が古いままで、北朝鮮の語彙に聞こえてしまうようである。「ずれはからずもぶれ」という展示の題をよく表している。
近藤愛助さんの作品は、明治期にアメリカにわたり戦時中は収容所に入れられていた曾祖父についてのもの。曽祖父が撮影した写真をもとに彼が辿った場所を巡る。収容所跡地にはなにもない。「黄禍論」の系譜を整理した映像も、先日から「イエローモンキー」表象が気になっている自分としてはかなりクリティカルなものだった。
ほかにも、ドンバス戦争で帰れなくなった青年(帰ると徴兵されるため)に、自宅のVRを作り体験してもらうアリサ・ベルゲルの作品や、ガザの分離壁や38度線にある海を撮影したイシャイ・ガルバッシュの作品など、どれをとってもいま見る意義があるものでした。
https://zure.baexong.net/index-jpn.html
なんというか、「植民地主義の反省」みたいな文脈ではなく、現にある土地でマイノリティとなる立場の人たちが制作したもので、作品の表面だけ見てもたぶんわからないことが多く、それで説明できるように現地に人を置いているのだとおもう。揺さぶられる展示でした。
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「問題の覚書が何を意味しているかをテクストに即して解釈するという姿勢そのものが、すでに政治的に不適切な行為と見なされる」ってこれ研究者レベルでそうなの?それはすごいな。
「ハイデガーを読むのはやめなさい!」とマルクス・ガブリエルが日本人に警告したにもかかわらず、私たちがハイデガーを読むべき理由 https://gendai.media/articles/-/131410
下らないことで「不穏当発言」として「退席」とか「発言取消」とか動議するのが小池都政なんですね。「誰が答弁するかを決めるのが都知事ではない」が正しいとしても、これで発言削除を求めて賛成多数とか、異常だとおもう。
https://www.youtube.com/watch?v=oN5zpuJ-CdU
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これ、ふつうにその通りだとおもうけど、引用がひどいこと
コロンブスの評価が変わった延長線上で、「征夷大将軍」の評価も変わらざるを得ない筈なのだが。
エスノセントリズム、いろんなところに価値観や語彙のレベルで入りこんでいるから、相対化とか客観視するのなかなか難しい
エスノセントリズムがどのように構築されているかといえば、ある言語や物語が繰り返し語られることによる
我々のいろいろな観念がどれくらい物語の上に成立しているかはけっこう周到な検討が必要
この観念を語る装置は、教科書であったり博物館であったり、通俗詳説であったり、国民的映画であったり、いろいろありますよね
「歴史的事実」というものが「評価」を抜きに存在しているわけではない、みたいなことをE. H. カーの「歴史とは何か」に書いてあった気がするけど、どうだっけ
交通事故があったとして、裁判で弁護人がいくつかの証拠をあつめるとき、彼が語ろうとする話にとって意義のある事実とそうでない事実がある
事実は事実を評価するシステムの内部で「事実」となる
みたいな話
ペースペクティブの変化によってある歴史的事実の歴史的評価が変化するのは常識に属するものだとおもっているのだけど、そうでもないものですか。
SNSでめちゃくちゃブロックされてそうな歴史上の人物ことソクラテス