一般社会で、Twitterやはてブユーザーのような異常行動を取ることは少ない(無いとは言わない)。そうすると、一般的に考えるべきなのは「場所に住んでいる輩の問題」なのではなくて、「場所がどういうデザインをしていればどういう輩が発生するのか」。一般社会で人間の異常行動が抑制されるのであれば、それにはそういうアーキテクチュラルな仕組みがある。
一般社会で、Twitterやはてブユーザーのような異常行動を取ることは少ない(無いとは言わない)。そうすると、一般的に考えるべきなのは「場所に住んでいる輩の問題」なのではなくて、「場所がどういうデザインをしていればどういう輩が発生するのか」。一般社会で人間の異常行動が抑制されるのであれば、それにはそういうアーキテクチュラルな仕組みがある。
プラットフォーム運営企業はいつも、ユーザーに一定の行動をとるようなデザインをしている。それが環境として扱われるようになると、まるで自然のような振りをして、そこで異常行動を取るユーザーが悪いということを言いだす。環境を透明だと思うユーザーも、「インターネットが悪い場所なのは人間の本性」と言いだす。言うまでもなく、デザインされた本性でしかない。
はてなにクソコンテンツを削除しろとも要求していないんだけど、「検閲だ!」と吹き上がる層が一定以上いたのは、文が読めないというのもあるけど、はてな社によるクソイデオロギーの喧伝が成功しているということの証左ではある。
SNSはプラットフォーマーが好ましいと考えるコンテンツを上位に表示するアルゴリズムをもっていて(好ましくないコンテンツの表示頻度を下げる)、それもモデレーションの一部なんですね
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物理媒体としての本の流通、取次がすでに儲かっていない。ここで大量に出荷することで流通コストを圧縮できていたのが、各地の書店・コンビニ・駅構内で物理本が置かれるスペースが小さくなったため、相対的な流通コストが上がっている。雑誌が売れないのでそれが相対的な流通コストを押し上げ、今後本の単価が高くならざるを得ない。
このへん、amazonが参入しようとしているけど、テック企業というよりロジスティクスの企業といったほうがいい
@BLUE_PANOPTICON 出版となると、コンテンツ制作のほうまで踏み込むことになるので、現状ではノウハウが違いすぎてむずかしいとはおもいますね。ビジネスになるようなコンテンツ制作、テック系企業が参入を試みて生態系の破壊はあってもなかなか新しいものは見ていない気がしています。
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@BLUE_PANOPTICON ちなみに、出版流通があぶないと言いつつ、書店と取次は危機的ですが、大手出版業はいまのところ安泰だったりします。コンテンツ制作のノウハウが体系化されることがほとんどないので、大手出版業はこれまで通りコンテンツ制作しつつ、流通機構については業界再編を含むようなことを計画している段階であろうとおもいます。
@BLUE_PANOPTICON 小規模ビジネスとしてはそういう形があるのですが、Amazonとしてはたぶんあまり売上のあがるビジネスにはならなそうで(量がつくれないし安定しない、編集の才能の発掘に困難がある)、そうなると、小規模出版で編集する側も、amazonというより小規模流通を目指すのではないかなという気がします。この例が文フリとかで、流通機構がマス向けではなく限られてくるが、小部数はければよい状態を維持する。
大規模流通を目指すと、強力なロジを持つ取次がアマゾンに依存することになるけど、同人出版に近い形のものであればロジの費用なんて度外視して完売を目指せばいい。書店に山積みとかがビジネスモデルだったのが、小部数発行で宣伝をオンラインにして在庫は少量にする。
@BLUE_PANOPTICON これ、どうなんでしょうねぇ。売り方も含めて情報商材そっくりで、既存出版における「本を作る」ということとはまた違っていて、本以外のものになりそうな感じはします(情報が売れればいいというか)。アナログ写真とデジタル写真のアナロジーで、書籍という形態そのものが再編成される、と考えれば違うものとして考えれば、なくはない感じもします。
Webに掲載した記事から、その著者の人となりを勝手に推測して評価するの(コンテンツではなく!)、すげー下世話なんだけど、そういうのはてなじゃなくてもたくさんいる。
こういうのが著名なプログラマーにももちろんいて、オメーはコードレビューでも人格評価するんかい
Linusとかはやりそうだけど
「テキストを読む」ことに慣れていないと、テキストは人格そのものとおもってしまうのだろう。ナイーブとはそういうことではあるのだけど。わたしのテキストを読んでわたしを感情的でナイーブだとおもう人は自身の読解力を心配したほうがよいとおもう。
感情的/論理的みたいなの前もなんか書いた気がするけど。
テキストと人格を切り離すためにテキストにするというのは確実にある。テキストを読み慣れない人はたぶんその操作がどういうものかわからなくて、「わたし」と書いてあれば素朴に「わたし」の実在性を疑わない。
読むことに慣れていないのか、書くことに慣れていないのか
自分の理解では「読むことに慣れていない」ではあり、というのも、あるテキストを読んで「書き手はナイーブで心配」のような感想を抱くのは、「読み手である自分がナイーブであるように読めるテキストに、なにかしら心配という感情を覚えている」という状況に対して、「書き手」という仮定された存在の「ナイーブさ」という性質を仮定しなければ整合しないと考えている。テキストを読むという行為が、自身とテキストの関係であることを理解できていないという点で、読むことに失敗している。