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日本政府、イスラエルの大使館攻撃はスルーしてイランの攻撃を非難してるのか...
いやぁ、意味わかんねー...。というかこれは、イスラエルかアメリカが、今のパレスチナ情勢を挽回する目的で、イスラエルを被害者ポジションに据えてイランを敵にするという話にしか見えない。
https://digital.asahi.com/articles/ASS4G76BLS4GUHBI031M.html
部屋寒すぎ!とおもって昨日床の断熱を完了したばかりなのに夏が来てしまった
@emim じっさい気密性はあげていった(いろんな隙間を埋めていった)ので、快適になっているに違いない!!
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女性に髭が生えたり、男性の胸が膨らんだりすることがある。これの治療を薬剤で行うことになんの問題も感じないのに、トランスユースに対する思春期ブロッカーを問題視するのはダブスタである。
「あるがままの身体」というのを過剰に神聖視している。健康な身体というのは、時には人為的な介入を持って実現しているものだ。
トランスジェンダーに関連して「身体的性」みたいな概念を持ち出す議論、「戸籍上の本名」とかと同じニュアンスを感じる。表層とギャップのある「実体」みたいなものを仮定して、その表層(というか一般的な社会性なんだけど)を「仮のもの」とするような考え。しかもそのとき「実体」とされるものは、どちらも国家によって管理された情報をアイデンティティの根拠としている。
むかしのヴェネチアビエンナーレのスペイン館で、サンティアゴ・シエラがスペイン国籍の持ち主だけ入場できるようにしていた話を思い出しているけど、こういうのは論じなおす必要があるとおもう。サンティアゴ・シエラはたぶん意識的にナショナリズムと差別構造を組み込んでいるんだろうとおもうけど、どのくらいその文脈から議論されてきたのだろう。
https://bijutsutecho.com/artists/300
「おれはステージング環境にデプロイしたとおもったらいつのまにかプロダクションにもデプロイされていた」
なにを言っているかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった
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瀧波ユカリの大吉原展の感想わざわざ見に行ったけど、しょうもなさすぎる...
『描かれた歴史』展は1993年でもちろん見てないんだけど、カタログを読んでかなり力強いキュレーションだとおもう。資料としては充実しているがいたるところエクスキューズに満ちている『大吉原展』とか比べてしまうと、やっぱりキュレーションの力不足でしょという感想になっちゃうんだよな。
MLBが Jackie Robinson Day だと言うので誰?となって調べたけど、知らんかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3
ジャッキー・ロビンソンがメジャーデビューするのが1947年、その前が1884年にモーゼス・フリート・ウォーカーがアフリカ系アメリカ人としてメジャーリーグに出場しているけど、その間に人種隔離的なリーグ制があった感じなのか。
ニグロリーグの経緯、当初は人種隔離的な制度というより、南北戦争の流れのなかで黒人中心チームを結成、プロ化があり、メジャーリーグにも黒人がいたらしく、流動的な様子がうかがえるが、1880年代後半くらいから有色人種排斥の流れがあって、自然に(?)リーグごと人種隔離的になっていったと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0
奴隷解放宣言から公民権運動の間にちょうど挟まっている
アメリカ史をちゃんと勉強しないと...
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かわいいけどけっこうなお値段だ
https://www.sukima.gift/items/42167841
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わかってたことではあるけど、なんとなくで Rails のコールバックに登録するとヤバい
"文化庁が派遣するのは、展示解説の文章や映像・音声を魅力的にするライターや放送作家といったクリエイターや、博物館の資料をインターネット上などでも活用を進めるため、資料をデジタル化して保存する専門知識を持つ「デジタルアーキビスト」などの専門人材だ。資金を寄付などで集める専門家「ファンドレイザー」や、マーケティングの専門家を派遣して経営基盤を強化してもらうことも想定する" https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240412-OYT1T50113/
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自分はCSSの知識薄いのでいじるときはだいたいインブラウザだけど、ブラウザから外部ファイルに保存できるようになってほしいのはある。やりようはありそうな気もするけど。
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ruby ってもしかして、ランタイムにあるクラスに適当な module を include することができるんだっけ?
include はできるけど、include されたものを取り外すことができない?できたら完璧なのになぁ
全体感がなくてユニットテストがあるやつ、ユニットテストに囚われてあんまりよくないよなぁ
インターフェースがいけてないから作りなおす必要があるときに、ユニットテストに囚われるとインターフェースを動かしづらくしちゃう
ユニットテストなんて壊してしまっていいんだけど
うーん、やっぱりテストのために今日の日付を外から渡せるようにするやつ、微妙だよな...
バックスペースキーが「前のページへ戻る」みたいな用途に使われるようになったのけっこう謎だな
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これ、捉えかた難しいな...。停戦と人質解放というのが、イスラエル国民らしいというか。hostage に赤線が引かれているけど「ガザに閉じ込められた人たち」というニュアンスも含めて言いたかったりするのだろうか。もろもろ理解の上で国内情勢的にかなり曖昧な言い方に落とし込んでいるだけかもしれないのだけど。
https://www.nytimes.com/2024/04/16/arts/design/israel-pavilion-venice-biennale.html
記事にもある Art Not Genocide Alliance の声明のほうも読んだけど、そもそもヴィエンナーレのイスラエルパヴィリオンをちゃんと閉鎖しろと要求しており、その要求を満たしていないから「空虚で日和見主義なジェスチャー」だと批判している。イスラエルのアーティスト、キュレーターはこの要求に歩みを合わせてはいないうえに、ANGA が団体名称にも採用している genocide という語ではなく hostage という語を選んでいるわけで、やっぱりそういう選択に見えてしまうんだよな。
https://www.instagram.com/p/C50jT-iICK4/
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ていうか ANGA はイスラエルパヴィリオンを "The Genocide Pavilion" と呼んでいるのかなりすごいな。
ユダヤ人虐殺のホロコーストが英語では定冠詞つきの "The Holocaust" であることを踏まえて、 "The Genocide Pavilion" と呼んでいるのだろうとおもうけど、ホロコーストやジェノサイドという語の使い方を見ても、語彙の選択じたいにかなり意図を問われるのだという感じがする。
状態遷移のトリガーだとおもっていたものが状態遷移などしていなかったな...
つーかベネチアビエンナーレにぜんぜん関心がなかったから知らなかったけど、日本館は毛利悠子さんなんだな。
https://venezia-biennale-japan.jpf.go.jp/j/
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ヴェネチアビエンナーレのイスラエル館の件、この記事によると、ANGAからの批判に対して、キュレーターがHaaretzのインタビューに答えている。「国際的舞台でイスラエル館を公式に承認することはイスラエルの政策への承認に等しい」というような内容の署名にナン・ゴールディンらが参加しており、それに対して、キュレーターは「批判者が10/7のハマスによる攻撃について触れていない」と返したらしい。なんかやっぱりこの経緯を読むと、イスラエル館のあれはエクスキューズでしかなく、イスラエル国内外での認知の差がすごく大きいんだなと感じざるを得ない。
この記事はル・モンドの記事のドイツ語訳らしいもので、機械翻訳で読みました(ル・モンドの元の記事はサブスクで途中までしか読めなかった)。
https://perspektiven-global.de/2024/04/17/ruth-patir-die-israel-auf-der-biennale-von-venedig-vertritt-beschliesst-den-pavillon-ihres-landes-nicht-zu-eroeffnen/
この振る舞いを見ると、やっぱり日本の戦争責任問題も外からはこのように見えてそうだよな...。めちゃくちゃ加害者なのに、被害者ポジションとってしまう感じが見覚えありすぎる。
池田蕉園の研究している人いるな。これはしばらくしたらようやく回顧展やる流れになるかな。
https://researchmap.jp/yamamotoyuri
月百姿見に行かないと...。
ていうか、滑稽堂が雪月花シリーズで考えていたのか。
https://twitter.com/Artistian_net/status/1779458471630602445
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んー、やっぱり Project Maven で使われていた技術がドローン映像の物体認識技術で、そのAPIを提供しているのが Project Nimbus だとしかおもえないんだよな。アプリケーションを構築しているのがイスラエル側だとしても。
https://www.nytimes.com/2024/04/18/technology/google-firing-israeli-cloud-contract.html
ふーむ、冷泉家はやはりまだまだいろいろ出てくるな。すごい。
古今和歌集の注釈書、藤原定家自筆の原本 専門家「国宝級の発見」
https://www.asahi.com/sp/articles/ASS4L1J94S4LUCVL04RM.html
というかイスラエル政府の全面的なクラウド化推進案件があり、そのなかに軍事機能も含まれるように思える。決定的な証拠がでてきていないからなんともいえないけど。
裁判の争点読んでて、ガンリンがさえぼうを「異常性格」として揶揄したツイートを
「異常」とは、普通ではなく常軌を逸脱していることを表す言葉であり、人格攻撃の意味を持たない
と弁論しており、さすがに無理がありすぎる
各争点(争点は11ある)に対する被告(ガンリン)側の弁論、どれも「無理があろうと思われます」という感想しかでてこないものだった。裁判所の各争点の解釈、まあそうなるよねという以上のものがない。
220万円が重すぎるかどうかは裁判所の判断であるから知らないが、不服なら上告すればいいだけのことを(それこそ法理の問題である)、SNSでの場外乱闘で自分の好ましい意見に誘導しようとしているのは、悪質としか言いようがないな。
この訴訟の結論に「「勝ちすぎた」側は、ともすれは邪悪で狡猾なものにみえてしまう。」「原告側は戦略的に失敗したのでは? と言っているのは、このためです」とか大学の教授が言っているのびっくりするな。雁琳側が負けすぎなだけでしょ...。
イッペイ・トロツキー
"大谷の絵本から一平消されてて草"
https://twitter.com/yoh_is_god/status/1780930491836940375?
Big Techによる永代供養にありがちなこと、墓地のオーバーコミット、墓参りに来ないとすぐ墓が消えて別の故人に割り当てられる、むしろ墓参りのときだけ墓を用意する、など
あるいは、体積コストをどれだけ支払えるかによって無圧縮遺骨収容か圧縮遺骨収容かを選ぶ未来もあるかもしれない。
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Amazonが供養のインターフェースを変更できると考えていること、供養がまさに生者のためのインターフェースでしかないことを明確にしているな
これのことなんだが。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1780975218078683563
ここで永井均の引用元ツイートが「社会の仕組みそのものの劣化」と呼んでいるのは、雁琳/北村の訴訟の結果についての北村の述懐を「無法」と呼ぶ別ツイート(白饅頭)への賛同の文脈で言われている。まあほぼ裁判結果の完全な否認といってよく、裁判の結論自体が政治的に導きだされたものだと考えているに等しい。「無法」なのはどっちだって話だなんだけど、それを「社会の仕組みそのものの劣化」と呼んでいる。いやいやいや...。
裁判結果についての北村の述懐/解釈への批判はふつうにやればいいでしょ。訴訟に対して独立事象で、誰も禁じていない。それを、まるで訴訟の結果カンパが禁じられているかのように誤誘導し、言論の自由が封殺されているかのように騙る論に永井均がのっかってるの、悲しいというか、しょうもないというか。
裁判結果に対して、法理として間違ってるという主張ならまだぜんぜんわかるよ。でも法理として間違ってるという主張もないまま、裁判結果がおかしいと主張している人がたくさん沸いていて、そのうえで、これは市民的な闘争なんだと宣っている。なんなんですかね。
裁判所以外でおこなわれる場外乱闘こそが政治的意図によって行われているだけなのに、訴訟についてすらこういう場外乱闘こそが妥当な議論が行われている場だと考える人たち(裁判所は正義を有さないと考える人たち)、SNSに毒されすぎている。
220万円が妥当かどうかは法理で決まる話で、裁判官も判断を間違うことはあるだろう。不服であれば控訴すればいいというだけ。ただ、雁琳側の弁論、ほとんどの争点で反論になっていない。控訴したとして「カンパの増額に見える」判決が法的根拠をもつかどうかが論点になるのだろうけど、それ以上に、「場外」において11の争点を無視して「カンパ」に焦点を当てさせようとする誘導っぷりが悪質。
ちなみに「カンパ」が増額事由として考慮すべきものとするのは、争点11の被害額の算定。原告側の主張としては、被告の誹謗中傷を原因として、ツイッターでの活動が困難になったこと、職務遂行が困難になったこと、現在でもツイッターを通じて誹謗中傷を受けつづけていること、被告がなお撤回していないことなど、いろいろ挙げたあとに最後にその一つとしてカンパも金額算定の根拠に挙げている。カンパは理由の一つにすぎない。
判決文もカンパが高額だから200万とは言っていなくて、カンパの増額事由がいくらくらいに相当するかの評価は判決中ではしていない。基本的には11の争点のほとんどで北村側の主張が認められた結果高額になっているだけのことでしかない(300万の主張に対し200万と結論づけられているのはいくつかの争点で原告の主張が通っていないため)。カンパしたから200万と高額になったと主張している人たちは議論する前提がおかしい。
白饅頭とか、カンパの増額が懲罰的だと思ってるらしいが、判決文読んだらそうはならんやろ。全体として悪質な誹謗中傷であると認められただけで200万円の被害額と算定された、としか言えない。
カンパについての争点への被告の反論、次のようなもので、吹き出したよね。
カンパは寄付者が自らの意思に従って贈与したものである上、投稿後に生じた事情であり、本件各投稿の損害増額事由として考慮すべきものではないし、むしろ、その金額が多いことは、原告と戦うべきだと考えている人がそれだけ多く、原告への批判が正当であることを意味しており、原告の損害額が小さいことの根拠となるものである。
「増額事由として考慮すべきものではない」までは理解できるけど、「むしろ」以降のドライブのかかりかたすごすぎて、そんな弁護で大丈夫なのか??ってなったよ。
でも雁琳氏の弁護士、ネット紛争関係では有名な方らしく、無能ではないらしいが、この「むしろ」以降苦し紛れで言ってるとしか思えないんだよな。
メモ
雁琳側弁護士はネット紛争関係の法曹向け解説書も書かれている神田知宏氏で、この手の訴訟のエキスパート。その相手にこんなコールドゲームみたいな判決取る神原弁護士がすごい。 https://twitter.com/muchonov/status/1780735806782758937
神原先生、自らが関わった呉座-さえぼうオープンレター訴訟の顛末も原告主張の論拠に盛り込み、SNSの名誉毀損メカニズム(フォロワー数、反復的ツイートやRTの回数)による名誉毀損の程度の増大や、訴訟支援寄付額に応じた損害額算定など、今後の新たな基準になりそうな司法判断も取っている。 https://twitter.com/muchonov/status/1780738684192698369
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ぼくは「むしろ」まではなるほどと思ったが、「原告への損害が少ない証拠」のとこで「?」とはなった。
これ弁護士の能力の問題じゃない。明らかに継続的に悪質な嫌がらせを続けてしかもその後も反省する気ない上に、インフルエンサーとして「殺すまで死なねーぜ!!!」とかイキってたら、そらそれくらいの金額いっちゃうのは仕方ないって話だと思う。
永井氏のツイートのこのあたり、ニーチェが「善い」と「好い」を分けたときの「好い」を基礎に置いていて(直接的価値とはそういう議論だったとおもう)、善を相対化するんだけど、やっぱり独我論者らしく、人間は相互作用的な存在だということは捨象してしまう。人間が社会的存在であるとする立場と独我論的立場では、「善」と「好」の評価が真逆になってしまう。とか、そういうことを思った。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1780395047571411298
この引用元の谷口氏が
「ホントはダメなんだけど、いいよね」じゃなくて、「ホントはいいんだけど、ダメなんだよね」が正しい
と言っているのは、ずいぶん昔の子供のための哲学とかあたりの永井の著作にあらわれた結論だったはずで、いま考えると、この「ホント」を措定して通俗道徳を仮象として扱う議論は、ニーチェよりはデカルトから来ているように思う。
「ホントはいいんだけど」という言い方、『地下室の手記』のクレオパトラは暇だったから従者に針を指したという話を思い出すんだけど、ドストエフスキーはそういう独我論的な世界観の主張をさせつつ、後半ではそういう地下室の主人公が実際の社会でどう惨めな存在であるかまで描くんだよね。独我論もポリフォニックな声の一つとして扱ってしまう。でも、永井氏はポリフォニックな見方は決してしないとおもう。
「地下室の手記」も「罪と罰」も、過剰な近代的自我の持ち主の主人公が出会う「他者」は売春婦で、主人公が彼女たちより慘めであることを自覚する瞬間がある
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永井均はニーチェの本書いているけど、それは倫理学的洞察の媒介にはなっているだろうけど、あまりニーチェっぽいというかんじはしない。
永井均の議論の構成は仮/実をけっこう区分する思考の癖があるようにおもわれ、「偽の◯◯」があるということをやるからで、それは方法的懐疑のようなものに見える。山括弧の〈私〉もこの方法的懐疑を支えるものとしてあるようにしか見えないのだけど、それはふつうにデカルトでは?というのがある
永井哲学のデカルト主義的な議論の構成と、彼がトランスジェンダー問題に関心を持つのは整合性がある。自分が永井哲学的な発想のなかで気になっているのはこういう↓点で、「真の」なにかを仮定することで、人間の常識的な生を「仮の」ものにしていないか。これはちょうどデカルトが真の基礎をもった道徳がわかるまでは仮の道徳に従うとしたのと対応しているようには見える。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AguRSjNJTUxp0UgKvI
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責任はわからないが、人が二人いるところに、神もまたいる、と聖書に書いてあった気がする。うろおぼえ。
責任、「かくかくはしかじかの役割を果たすものとする」ときに、その「果たすものとする」が信頼によってしか成り立たないから、その信頼を裏切っては全体が崩れることを以て「責任」というものがあるとしている、ように思う
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読んでいる
「悪」の団体を燃やす
––Colabo に対するハラスメントにはたらくネットワーク・ミソジニーの論理
https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2024/03/106_7.pdf
いくつかひっかかるところはあるけど、おおむねおもしろかった。
トランプの大統領当選を機に書かれたBanet-Weiserの著作が、いくつかの分析枠組を提供している。
みたいなのが、おそらく元の Banet-Weiser の本におけるトランプ現象の分析枠組みになるのかな?
Banet-Weiser の著作について、本論考の著者はつぎのように整理する。
本著作の目的は、ポピュラー・ミソジニーが単なる言説から政治的な動員へとどのように進化し、いかにして父権制度を(再)確立するのかを明らかにすることにもあった。Banet-Weiser は、このプロセスの重要な要素として「ネットワーク化」を指摘する。ここでいう「ネットワーク化」とは、一見強いつながりのない集団や個人が互いに関連している際に、フェミニズムを共通の敵とみなしてハラスメントや誹謗中傷を連帯の手段とすることだと述べた(Banet-Weiser 2018, 118)。
次のような指摘は興味深い。
ポピュラー・ミソジニーの信奉者の主たる立場は、フェミニズムを社会の限られた公共資源を独占し、現在の男性の社会地位を揺るがし、現行の政治および文化の安定を脅すものと位置付ける(Banet-Weiser 2018, 5)。
ようするに、フェミニズムが公共的な資源を専有しているかのように見えているから、その対応物として、ポピュラー・ミソジニー的現象が発生する。
「ネットワーク・ミソジニー」という概念は、おそらく Banet-Weiser の著作ではなく、本論考の概念のようだが、「反フェミニズム」というだけで、他には共通性のない集団が同時に「フェミニズム的」な集団を攻撃する、という現象を指している。論考で扱われるのは、暇空茜と煉獄コロアキで、これらはColaboへの攻撃としても相互に独立の活動であり、組織的な攻撃ではない。
複数の独立した主体が、ターゲットから「資源」を奪うよう動く。暇空茜も、煉獄コロアキも、Colaboを攻撃することによってアテンションを獲得し、それを資源として経済活動にまでしている。これははっきりいえば「ポピュラー・フェミニズム」の側もおなじで、アテンションを資源としてその社会的地位を獲得している側面があり、それゆえアテンションの奪い合いという様相になる(ちなみに本論考にも述べられているが、Colaboの活動にとってアテンションを獲得することは重要ではない)。
このあたりの理解の仕方は、話題になっていた北村・雁琳裁判において指摘された「訴訟ビジネス」というものと共通の問題。というかおそらくこの文脈を踏まえてのことなんだろうとおもう。
自分がこの論考をみつけたのはこのツイートで、まあこれの引用RTを見ると悪意しかなく、まさに論考の分析対象となるようなものではある。引用RTが49、RTが422あるけど、何人が論考を読んだんだろう...。嘲笑されるような内容の論考とは読めない。
https://twitter.com/otakulawyer/status/1780472366591881615
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ストーカー公開されてるのか
https://www.openculture.com/2024/04/watch-stalker-andrei-tarkovskys-mind-bending-masterpiece-free.html
田中功起の今回のやつ、まじで言ってるだけのやつで一番イライラさせられたけどな。それをキュレーターが実現しないのがおかしいみたいなこと言っちゃうのは、どんだけアーティストを甘やかせばいいんだ。田中功起がいくつもある提案のうちの一つを無理矢理でも実現するプロジェクトをたちあげて、実現のために具体的な障害とぶつかりながらやればよかった(そういうのをドキュメンタリーにでもすればよかった)。そういった模索は全然なくて、アーティストは提案するだけ、キュレーターが実現しないからダメとかそんなバカな話ない。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/does-the-future-sleep-here-nmwa-review-202404
そんなことしたら、労働をアウトソースしてアーティストが上澄みをかすめとってるだけじゃねーか。
「慰安婦」動員の強制性を否定する日本の教科書、検定で追加合格
https://japan.hani.co.kr/arti/international/49787.html
日本の美術における西洋中心主義って戦後の話だよなあ。明治以降の美術史自体が戦後的なパースペクティブで再構築されていてかなり見えづらくなっているけど。
教会で賛美歌やってて聖書の小パンフ配ってたからもらったけど、「獣の印」とか書かれててヤバいな...