大学の教授が、教え子の書いた先行論文を70%転用して、「盗用」として三ヶ月の懲戒処分をくらったとかいう記事を読んで、えっそれ懲戒3ヶ月程度なの?みたいな感想と、ていうかむしろこの教授が「了承得ていて盗用じゃないから懲戒は不当」として学校に対して訴訟を提起しているとかで、どんな認識で生きてるんだ
https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2024/04/15/213059
大学の教授が、教え子の書いた先行論文を70%転用して、「盗用」として三ヶ月の懲戒処分をくらったとかいう記事を読んで、えっそれ懲戒3ヶ月程度なの?みたいな感想と、ていうかむしろこの教授が「了承得ていて盗用じゃないから懲戒は不当」として学校に対して訴訟を提起しているとかで、どんな認識で生きてるんだ
https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2024/04/15/213059
ああ、雁琳そのものより、インターネットの空気を作りだすことで文字通りビジネスをしている白饅頭がいちばん厄介なんだな。
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/12/09/114820
中平卓馬展の図録ようやく届いた。かっこいいし資料としてめちゃくちゃよさそう。
いまミソジニーって女性嫌悪や女性蔑視って意味であるより、フェミニズム嫌悪なんだよな。
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インターネットの誹謗中傷って対象のリソース枯渇を目的としている点でDDoSと似ているなとおもう。
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xmppどうなったん
「Google Chat」が「Microsoft Teams」「Slack」とチャットできる機能を一般提供/
https://www.msn.com/ja-jp/news/techandscience/google-chat-%E3%81%8C-microsoft-teams-slack-%E3%81%A8%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%82%92%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%8F%90%E4%BE%9B/ar-AA1nqlrQ
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やっぱり法曹界はこういう問題意識なんだな。損害の回復というだけではなく、懲罰的な損害賠償による抑止という建て付け。ただ、これはこれで難しそうだけど。
「ネット論客」に“220万円”の損害賠償命令 それでも「誹謗中傷」の“収益化”が止められないワケ
https://www.ben54.jp/news/1076
誹謗中傷やデマがビジネスにまでなったのはSNSの台頭によることを顧みると、SNS運用企業にもデマや誹謗中傷について責任を持たせる建て付けが必要そうには思う。まあこれまでテレビや新聞や雑誌がそれを持っていたかというと疑問はあるけど...。
もはや怪文書の域に達しているな...
「北村紗衣・山内雁琳」訴訟の地裁判決を正しく読む|Yonaha Jun https://note.com/yonahajun/n/n41e7dc642a7c
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うーん...
「mRNAワクチンに疑問を持つ」ことと「トランスジェンダーが女子トイレを使うことについて、異性愛男性による犯罪の危険はないのか疑問を呈する」ことを並列に並べて、「疑問を持つ」ことへの素朴な信頼を述べるのが、「子供じゃないんだから」とは言いたくはなる。
そもそも、新しい機序のワクチンへの疑問とトランスジェンダー関連の疑問を並列な「疑問」とすること自体、それこそ疑問なんだが。前者が本稿で問題視される「専門家」についての問題提起であることは理解できるにせよ、後者はそういう問題ではぜんぜんない。前者との類比で後者を語ろうとすると、トランスジェンダー問題について語る「専門家」が問題について専横的な判断を下している、ということになろうが、ぜんぜんそういう話ではないし、そう理解する根拠などまったくない。
https://note.com/yonahajun/n/n0e8bcdc8f290
めちゃくちゃ勉強になった。産業資本主義と金融資本主義。
産業資本主義の発展形態として社会主義があり、社会主義経済においてはたとえば教育、医療、住宅などが無料であるがゆえに、基本的な労働力が安くなり、競争力となる。公共セクターの創出し、生活にかかる基礎的な費用を下げることで、生産についての競争力をもって覇権をとったのが、当初のアメリカであり、日本であり、中国である。ようするにこのへんはほとんど社会主義だった。
中世においては、地主が土地から税を収奪していたので、労働者は病気の対応もしないといけないしあれこれ生活のコストを自分で賄う必要がある。地主がコストを負わないで労働者が負う必要があるので、労働生産性があがらない。
金融資本主義も実質的にはほとんどこれと同じことがおきており、現代のアメリカにおいて土地が高騰しまくっていて、労働者の賃金が上がらざるを得ない。生産にかかるコストが高いので企業は海外の労働力を使うことになる。これはどうみてもいまの日本にも起きていることのようにおもえる。
https://twitter.com/ShortShort_News/status/1715308535817580993
FtMの人が例の本を読んだレビュー。
【トランスジェンダーになりたい少女たち】今、この時が歴史に刻まれるのか。トランスが明るみに出て、問題が浮き彫りになる。GIは広がりGIDが生きづらくなったと。
https://youtu.be/TkwKuXtwL0M?feature=shared
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これだいぶ前の記事だけど、GoogleマップでGazaの衛星写真みたらまったく更新していないですね。どういう意図かは不明だけど、意図をもってこうしているのはたぶんそう(たまたまではない)。
https://gigazine.net/news/20210519-gaza-blurry-on-google-maps/
ちなみに、「Googleマップ ガザ」でTwitter(X)検索すると「ガザにはマリンクラブ、ショッピングモール、フィットネスクラブなんでもある」「プールつき豪邸もあり金持ち」といっている連中がいて、Googleはそういう効果を狙っているといわれてもやむをえない。
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この記事も同じ流れにあるようにしか思えないですね。武器の性能アピールと集団的自衛。武器の共同開発はほぼ軍事同盟に等しいし、この軍事同盟が経済的利益も追求する形になっている。
ゼレンスキー大統領 イスラエル防衛引き合いに防空支援訴える
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240416/k10014422891000.html
現在のアメリカ国防長官のロイド・オースティン氏、イラク戦争時の指揮官のようだけど、退役後に役員となったレイセオン・テクノロジーズ(現RTXコーポレーション)が軍需産業で、株価は2023/10/7以降上がりつづけている(あたりまえだけど、あたりまえとは??)。
このレイセオンの創業者のうちの一人はどうやらバネヴァー・ブッシュで、まあ、なんというかさもありなん。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3
レイセオンのWikipedia見ていると、「ダイバシティ施策」に「2005年に性的マイノリティの従業員も平等に働く機会を提供する施策を導入している。」とあり、軍需産業こそこういうの言いがちなのはモヤモヤする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%B3
Amazonにかぎらないけど、米大手IT企業はもうかなりの程度軍需産業なんだよな...
AWS Outpostsに見る軍需産業とITの結びつき
https://note.com/mickmack/n/n220ce15d86d5
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永井均氏、現象学に批判される意味での上空飛行的という性格があるように思っており(永井哲学が世界内存在の否定であるのはたぶん間違った理解ではない)、このツイートはおそらくそういう話
現象学が世界内存在って言っていたのは、分析対象としての「世界内存在」を作りだすことではなく、「世界のなかで思考する」ということだとおもうけど(「問う」ということもまた世界内における行為である)、永井哲学において「思考」が起こる場というのは特権的な場じゃないだろうか。
機械のように受動的にしか動くことができないものと違って、人間は能動的に動くことができる、そういう能動性について霊魂の存在をデカルトは考えたわけで、まさに「機械の中の幽霊」こそがデカルト的に言う人間
永井均が変なのはTwitterやるより遥か前からですね。Twitterで碌でもないのとつきあっているのは彼の哲学的傾向と関係あるようには思う(哲学的業績とは無関係)。
秋葉原事件と永井哲学の関係は正面から論じられているんだろうかとおもったけど、この本で本人が文章を寄せているの気になるな
https://www.iwanami.co.jp/book/b262448.html
Gretchen McCulloch、千葉敏生(訳)『インターネットは言葉をどう変えたか デジタル時代の〈言語〉地図』(原題:Because Internet: Understanding the New Rules of Language)(フィルムアート社)を読む。
ハイデガーの「適所性」、ハンマーは釘を板に打ちつけるためにある、釘は板を固定するためにある、板は暴風から守るためにあるといった形でものの存在理由の連関の「了解」としてある。人間は行為時にそういった了解のなかを動きまわっているということだけど、なんかそんなにキレイにピタっと「適所」を得るようにはできていないとはおもう。
釘を打つということにも細かい位置の模索があり、いくつもの失敗に取り囲まれている。ある地点で釘を打つのではないような板の固定の仕方を思いついたとしたら、「了解」は破られていることになる。
行為を取り囲む環境が、きれいに構造化されているかのように語っているように思える。こういう疑問は昔は抱かなかったけど。
というか、ハイデガーが語る「適所性」を打ち立てる活動として制作があり、「制作」とその他諸活動は異なるのだろうか、どうだろう。そういう話はハイデガーがどこかでしてそうではある。
ハイデガーが行為の説明について適所を得させることとして説明するのは、哲学というものが常に行為に対して遅れてでてくる二次的な活動だからでもある。
行為理由の行き止まりに対して隠れた自己了解を見出そうとする議論も、意義はありつつ、筋が良くない議論に見えてしまうな。そのような自己了解があらゆる行為につきまとうかというと、ぜんぜんそんなことはない。
つまるところ、環境を道具として立て、それを操作する実存を非道具として立て、それらについてそれぞれ「なぜ」を問うから、道具存在は「なぜ」に対する回答を持つように見えるが、実存のほうは「なぜ」にたいする回答がないように見える。だが、このような形で「なぜ」という問いが現れる場が哲学以外にあるのだろうか。
言葉を変えて言えば、ハイデガーにとって世界とは組み立て可能なものとしてあるのではなく、組み立てられたものとしてあり、その組み立てられたものにたいして「なぜ」という問いを発している。近代科学は「なぜ」の問いを棄てたというが、じつはこのハイデガーの問いと裏腹の関係にあるように思われ、つまりそれは組み立てられたものが「どのようにして」と問うのが近代科学だったということができないだろうか。
そのように言いかえてみれば、現代の科学や哲学が近代のそれと決定的に異なるのは、まさにこれから組み立てるものとして世界を見ているからではないか。そのなかでは、哲学も科学も事象に対する遅延としてあるのではなく、それをもって物事を組み立てていくための仮説や判断規準としてあり、組み立てられたものに対して「後から」説明をするようなものとしてではなく、物事の「先に」ある。
アラン・ケイの「世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない」というパヴェーゼの引用などは、そういう態度を典型的に示している(し、彼は近代の科学と現代の科学を決定的に異なるものしている)。
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そういえばオンラインMTGをしていて年代によって顔を見せるかどうかがあり、若い人たちは顔を出さない、アラフォー以上は顔を出しがち。
これ年とともに面の皮があつくなり、顔出しに抵抗なくなることが中年の証...?とかおもっていたけど、考えてみると学生の回線の細さというのがありそう。
@emim 20代前半とかは、けっこう画面オフ+ミュートがデフォルトな人が多いなとおもっていました
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大正期日本画に眼が馴れてきて、画家たちがどういうことを試みているのか、ようやく理解できるようになってきたな。いままで馬鹿馬鹿しいとおもってきたようなものも、あらためて見ると、ほうなるほどみたいになる。
たとえば、清方の「ためさるる日」(大正7年)とか馬鹿らしいとおもっていたんだけど、これとか「なるほど」となったやつ。
これは島原遊廓における踏み絵がモチーフだけど、左隻の花魁(太夫)の厭そうな顔と、右隻のもはや醒めきった顔が描かれている。文字通りにはそれでいいんだけど、そもそも、ここで目指されているのは、そういった歴史画的なものだったり描かれる花魁(太夫)の心理描写だったりではなく(いやそれはあるんだけど)、「花魁」という浮世絵表象をいかに解体するかなのだ。こんな不安な表情をした花魁が浮世絵で描かれることはありえなかった。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/25269
もうすこし文脈を補足する。
清方の「ためさるる日」は大正7年だけど、大正3年に東京大正博覧会がおこなわれている。このとき、博覧会の便乗企画として吉原で花魁道中の復興がおこなわれる。ここで花魁道中をやらされた花魁の白縫が翌年人権侵害を訴えて自主廃業している。娼婦と蔑まれながら、たんなる好奇の眼にさらされる「再現された花魁道中」が苦痛でなかったはずはない。
大正になって、すでに終わってしまった花魁道中を復元しようとすることは、博覧会に来るであろう外国人観光客にむけてのジャポニズム的な文脈もあるわけだけど、江戸期浮世絵の表象をニッポンだとして生身の身体を抑圧することが大正期の雰囲気としてあったと言える。
そういう前提を置いて、「ためさるる日」を見ると、「浮世絵」というイメージそのものを攪乱することが清方の目標になっていると理解される。花魁の白縫が花魁道中を強制されたのは、江戸期浮世絵表象にまつわるセルフオリエンタリズムに起因するが、清方の絵は「浮世絵」というイメージそのものを揺さぶろうとしている。清方がセルフオリエンタリズムを批判したとか言いたいわけではない、そんなパースペクティブが彼にあったはずがない。そうではなく、浮世絵というイメージの固定性が問題だったのだ。
たぶん清方の絵がこのような解釈をされた試しはないはずで、それは大吉原展のキュレーションを見ればわかる。
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1910年(明43)の日英博覧会は植民地主義国家としての文明をアピールする会だったのだけど、人間動物園みたいなことやっていると同時に、「婦人出品」にかなり力を入れていたようである。
当時の政府にとって「文明国」である条件として、たくさんの植民地をもっていることと、女性が活躍している(ように見える)ことは重要だったようだ。
https://aska-r.repo.nii.ac.jp/records/5763
「茶道が昔から女性教育において果たしてきた役割は、決して些細なものではない」って茶道が女性の教養となるのは明治以降なのだが(この引用した評はたぶんイギリスでの評)。そう誤解されるような展示を意図的にしていた可能性はあるけど。
「日本では女性に参政権はないが、国の歴史全体を通して、女性は国政に大きな影響を及ぼしていたからである。極めて素晴らしい日本の和歌のいくつかは、女性によって書かれており、現在の皇后は、歌人としてその能力が広く認められている。」.
さらに「美術工芸については、レース編み、金細工、銀細工、刺しゅう、ならびに錦織の絶妙な見本が展示されていた。日本の女性が使っている楽器の展示や、生け花の実演もあった。また、有名な茶道についても、何らかの展示があった。茶道が昔から女性教育において果たしてきた役割は、決して些細なものではない。欧州の女性が喜んでいたのは、繊細な優美さを備え、実用的でも芸術的でもある化粧道具や、日本の女性が作った、重厚な刺しゅうのある立派な現代的衣装、ならびに、日本女性が散文や詩の分野で成し遂げられるものを示した写真展示とコレクションであった。」「婦人出品」のセクションは、日本の女性の地位が、欧米で思われているように決して低くなく、工芸、芸術、文学の分野において素晴らしい才能を発揮していことを英国人に示す効果があった。
「長崎で見たときはなんでもなかった踏絵が私の心にかかりだしたのは、東京へ帰ってきてからだった。(中略)
あの黒い足指の痕を残した人びとはどういう人だったのか―――と誰もが考えるように、私も考えた。自分の信ずるものを自分の足で踏んだとき、いったい彼らはどういう心情だったのだろう。」
「踏絵に足をかけていった人びとの話は、私にとってけっして遠い話ではなかった。むしろ切実な問題だった。〈信仰〉などと言うと縁遠い話になるのなら、〈自分の生き方や思想・信念を暴力によって歪められざるをえなかった人間の気持〉と考えてみればどうだろう。誰にでも痛いほどに分かる問題のはずだった。
踏絵の足指の痕は、他人事ではない。」
遠藤周作『沈黙の声』
明治大正期の資料探っていると、やっぱりこの時期が博覧会の季節で、というのも交通の発達と中央集権国家の確立を機に物資を一箇所に集めて展覧しよう、それで各地で品質なり新規製品開発なりの刺激としようというのが背景にある。
1930年代生まれの美術評論家が戦後に書いた文章読んでたけど無内容すぎてびっくりする