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「生前もあんなに不遇だったのに、死後にも狙われるゴッホかわいそう」とおもうのも、まあ美術史ストーリー消費にすぎなくて、このストーリー消費の中心でお金の生産装置になったものを攻撃してみせるとき、狙っているのは絵画なんじゃなくてこのストーリーのほうなわけで、自分としてはぜんぜん妥当というか、そんないうほど過激でもないとおもう。
threads やっぱり厳しいな〜とおもって見ていて、SNSの課題ってやはり多様なタイムラインを成立させることじゃないかとおもう。広告を見ていることが苦痛なのではなくて、「みんなと同じようなものを見せられている」状態が苦痛なんだなとおもった。あそこには単一のタイムラインがあるように錯覚させられる。
故郷の消滅した(単に実家がなくなっただけ…)私は、ほとんど行ったことのない、唯一現存している祖母の家に勝手に望郷の妄想を押し付けているが、果たして。
でもまあ、今年は行ってみよう。祖母が歌に詠んだ季節を見てみたい。
自分が子供のころ祖母の家に行っていたのは別な家で、その家はすでにない。祖母が幼いころを過ごした家は自分には直接関係がないし、母にとっても関係がなく、ロマン主義的な(?)執心にすぎないのだけど、その家を潰したら縁が切れるのではみたいな感覚だけがモヤモヤしている。あったものがなくなるということにはモヤモヤする。
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BlueskyよりFediverseにきてほしかったけど、広報との兼ね合いでそうにしかならないなとはおもう。
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そういえば、昨日の会合で私がMastodonを使っていると話す機会があったのだけど、そしたら「色々あってわかりにくいやつでしょ?」という反応が返ってきて、あ、やっぱりそうかという勝手の認識がよみがえってきた。そうだよな、多くの人にとってはきっとMastodonってそう見えているんだよな。
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「わかりにくい」から「やらない」って言うけど、現実は単に惰性なだけだと思う。人間にとって惰性ってめちゃくちゃ強いので。もう何年もツイッターやってるから変えるのだるいってだけ。あとは周囲の行動の模倣、同調。そういう人たちがえっらそうに「政府に反対」とか「民主主義」とか言ってんだもん。言うしかないんだもん。そっからどう考えるか?だよな。SNSには何ももう期待していませんが。
実際問題として、分散SNSは求められていないんだろうな。Blueskyに人がけっこう移住したのは、単一な情報共有の場を提供するSNSが求められてるんだろうなと思ってしまった。まともなTwitterがほしかっただけみたいな。みんなまたTwitterやるの?とおもうけど...。
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Threads にアートコンサルおじさんが住みついており、いろんなところで引用でマウントをとりつづけている。
そのインターネットぶつかりおじさんが、 Instagram をやらない現代のアーティストは数学を学ばないで情報工学やるようなものだと述べており、なんか真顔になってしまった。バズが発生するような情報環境があり、そのなかでアテンションをつくりだせる能力が換金能力と勘違いされ、あまつさえそれがないとアートではないとすら言いだす輩が登場してくると、文化もくそもない。
そういう輩は無視すればいいだけなのだろうけど、アート業界の現状はまだそんなにSNSが重要ではないといえ、SNSが地味に力を持ってしまうと、そのマウンティングおじさんが一面において正しいことを言っていることにもなり、そういうのは嫌だなとおもう。そもそも、SNSがこんなに力を持つべきではないし、アテンションを集める能力がもっと低く評価されてほしい。
アテンションの影響力で騙せる一部の層というのは基本的にワナビで、こういうのはどの業界にも常に一定数いる。ソフトウェアエンジニア業界はすでにこれを食い物にする環境が成立していて、アート業界のワナビを食い物にするビジネスが成立するのは恐れている。実際にはそういう輩は以前からいるけど、そういう輩はそれで食えるわけではなかったとおもう。
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あ、そうだ昨日の話で「インフラ開発の脱植民地主義」みたいなこと考えると、GPLライセンス重要だとおもう。GPLライセンスはソフトウェアの開発をラディカルに公開しようとするもので、誰もが参加できるし成果はソフトウェア利用共同体に還元しなければならない。これ、インフラの技術的独占を解体する話だから重要な社会運動だとおもっています。fediverse 系ソフトウェアはだいたいGPL系列だとおもいます。
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bluesky はMIT/Apacheライセンスで非コピーレフト
https://github.com/bluesky-social/atproto/blob/main/LICENSE.txt
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Mastodonの検索は、そのサーバの連合、つまり同じサーバの利用者がフォロー関係を持つつながりの強いところを検索範囲とするので、
たとえばmastodon.socialだと英語圏の投稿を中心にMastodon全域、fedibird.comだと日本語圏のMastodonとMisskeyに強いなど、特徴が出るよ。
そのサーバのローカルならフォロー関係なく入るから、特定の話題で盛り上がっているサーバなら、その話題を検索するときには一番強くなったりするしね。
まぁXと比べたら物足りないかもしれないけどさ。
クロールするのもいいかもしれないけど、余計なモノも増える気がするね。
少なくともサーバの誰かがフォローしてる人っていうのはかなり有効なフィルターで、投げ捨てのスパムとかは入ってこない。
まあ少なくとも全文検索未対応なmstdn.jpやPawooとか、他の検索が不便なActivityPub系サービスで不自由しているなら、mastodon.socialやfedibird.comで検索試してみるといいよ。
検索できるじゃん、って認識が新たになると思う。
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ラトゥールまだあんまり読んでないけど、ハラウェイ読んでようやく文脈だいぶ把握できたのはよかった
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最近は、いろいろあって自治とかアジールについて考えていた。
網野善彦の歴史観では、中世に「公界」と呼ばれた場所が一種の治外法権的な場所であり、また俗世権力も手を出しづらい場所としてあった。権力側としてはやはり囲い込みたいわけで、その自治領的な性格と対立しているというのは網野的な世界観で、ただ、それがたぶん刀狩で自治領は権力の配下に置かれることになる。
インターネットも網野の言う「公界」みたいな性格があると思うけど、自治を手放してしまう。まあ、サーバーの管理めんどくさいからね。
グリーンバーグは、芸術の自律性のなかにアジール的性格を読みとっていたけど、もともと左翼の闘士だった彼にとっては、想像力のなかに自治領を設置することにしたわけで、政治過程から離脱することだった。グリーンバーグがいかに批判されようと、現代の芸術はほとんどの場合この想像力に閉じ込められたアジールでしかない。
去年岡崎さんの彫刻が撤去されそうということが話題になったが、これも地続きの問題で、あの作品自体が囲われたフェンスを人間が到達できないアジールとして想定していた。砂川闘争というまさに自治を巡る争いを参照しつつ、それが現代においてはフェンスを挟んで立ち入りできない聖域に置かれてしまったわけだ。実際の土地の持ち主からすれば、そのアジールは想像的なものであって実在ではないから、撤去の判断は容易だった。
岡崎さんの失敗は、あの作品を維持するための自治的な構造をつくろうとして結果失敗したことにある。