布教乞いタグ乱発絵師 vs 自著の感想RTbot化著者
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
イタリアのコンテ首相が辞意表明 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190820/k10012042291000.html
これ 「休んでいると、世界のどこかで自分と同じ事をしている人がいるのではないかと不安。少しでも研究を進めたいので、土日も出ていました」
News Up “勤務ではない研究” 大学教員の働き方を考える | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190820/k10012042101000.html
教員の意識について
「労働者・雇用者であるという認識は薄く、大学というデパートに入居するテナントの責任者というような意識で働いている」
というのは絶妙に言い当てている感がある
「TBSラジオの番組での私の発言について説明をさせていただきたく存じます」 https://m.facebook.com/100005618055066/posts/1060136934183565?sfns=mo
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
『ノストラダムスといっしょ!』(ラノベのタイトル風に)
シンギュラリティー「ノストラダムスと一緒」新井教授:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASM7K3669M7KULZU001.html
電子計算機が一般に普及する以前で,「計算すべき対象や式は分かっているが計算が複雑ないし膨大で手に負えない」という事態で手詰まりになることはどれくらいあったのだろう.
計算機の力でゴリ押しできない以前では,便利な数表を暗記していたり,計算を簡略化するうまい手法を思いついたりあるいはせめて解がどのくらいの範囲に収まりそうか概算したりする計算術の技量はとても重要だったかもしれない(今もそうか).
そういえば「計算家」としてのガウスについては高木貞治『近世数学史談』の中に記述があった記憶がある(この本はよく参照の必要ができるのに手元にないので良くない)
https://www.iwanami.co.jp/book/b247060.html
ところで,インドには数字と音素を対応させて表記するアールヤバタ式記数法なるものがあり,他にも数と特定の単語を対応させた体系を用いて数を意味のある文に変換する「ブータ・サンキヤー(事物数)」という方法があって,これによって詩文として意味を成しつつ数表にもなっているという文献が存在しているということを最近学んで非常に感動しました.
林隆夫『インドの数学――ゼロの発明』(中公新書,1993年)
矢野道雄『インド数学の発想――IT大国の源流をたどる』(NHK出版新書,2011年)
が非常に面白くためになる本です.
ギリシア・ローマ世界では算数ないし数学を韻文で扱うということは,全くないわけではないがどちらかというと多分に衒学的なあるいはソフィスティケイトされた形であるのに対して,インドでは数学と詩が完全に調和的なものとして捉えられているのは面白い(立派な学者は数表を優れた詩文に昇華できるしそういうものを大量に暗記している).今でいう文理融合的な感じ.
実は西洋古代の文学における数学の伝統の中の小さからぬ部分を,ローマの詩人マーニーリウスの『アストロノミカ』も占めているのですが,そのことはごく最近までほとんど顧みられてはおらず,2011年にP. Glauthier氏が出した博士論文の中でこの問題がよく掘り下げられています.
Science and Poetry in Imperial Rome: Manilius, Lucan, and the Aetna https://doi.org/10.7916/D8057NWX
マーニーリウスを知らない人に説明するとき,多分一部の界隈の人には「フィールズ賞のメダルに刻んである詩を書いた人です」と言うのが一番食いつきがいいかもしれない.
transire suum pectus mundoque potiri
https://en.wikipedia.org/wiki/Fields_Medal
メダルの文は原文を少し変えていて,もとのものを文脈を含めて訳出すると,
quod quaeris, deus est: conaris scandere caelum
fataque fatali genitus cognoscere lege
et transire tuum pectus mundoque potiri. (Man. 4.390-392)
貴方が探究しているのは神なのだ.あなたが努めているのは天を昇ること,
運命の法に従い生まれながらその運命を知ること,
自らの胸の内を超え出て,宇宙を我が物とすること.
今ちょうどインドの詩文の話をした後で読み直したから気づいたけども《上る,登る》という意味のscandoには《韻律を計る》という意味もあるようだね(OLD s.v. 6 'to scan (a verse)', ただし用例は紀元後2世紀のTrentianus Maurusのみ).
こういう時代的にキワキワのケースをOLDでだけ見るのは不安なのでLewis & Shortも引くと,更に時代が下ってクラウディアーヌスにも例があった.scandere qui nescis, versiculos laceras (Claud. Epigr. 29.2)
ちょっと不思議に思っていることとして,フィールズ賞が創設されたのは1936年,ハウスマンの『アストロノミカ』校訂注釈書の第5巻分が出たのが1930年(ハウスマン自身は1936年に没する)でそれから間もなく,今でこそ「数学のノーベル賞」とも呼ばれる賞のメダルに相応しいラテン詩を選んだものだと思えるが,その当時にそこまで考えて選文できたのか(だとすれば何故か)という問いがある.