笑いについて「それはダメな笑いです」って(指摘する本人は気づいてないが結構恣意的に)指摘するだけなんだよな。差別性を指摘することは悪いことではないけれど、で、じゃあなんで笑いと差別が密接に関わってるのか。考察も分析もしない。常に世界を見る見方が「遅れた意識を持つやつら」と「進んだ意識を持つ自分たち」だけで処理されてて、この世にまるっきり矛盾がないかのように振る舞ってる。
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
笑いについて「それはダメな笑いです」って(指摘する本人は気づいてないが結構恣意的に)指摘するだけなんだよな。差別性を指摘することは悪いことではないけれど、で、じゃあなんで笑いと差別が密接に関わってるのか。考察も分析もしない。常に世界を見る見方が「遅れた意識を持つやつら」と「進んだ意識を持つ自分たち」だけで処理されてて、この世にまるっきり矛盾がないかのように振る舞ってる。
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ところが、笑いには「矛盾を調停する」機能【も】あるんだよね。だから素晴らしいとも言えるがだから厄介だとも言える。そういうことについてまるっきり話に上がってこない。紋切りで「これは弱いものいじめの笑いだからダメ」とか「これは抵抗してる笑いだから素晴らしい」とか。
自分は差別的なネタでも笑ってしまうことはあるよ。それはいろんなパターンがあって、笑ってはいけないとわかってなくて笑ってしまうってのもあるし、笑うのは良くないとわかってるが笑ってしまうこともある。
「差別のディスクール」自体の圧倒的な豊かさ、「おもしろさ」があるんだよね。だって差別ほど無茶苦茶なもんもないから。「あってはならない」とされてることなのにそこら中にあるし、もっともらしい理屈をつけているが不条理極まりない。安堂ホセ『ジャクソンひとり』とか爆笑しながら読んだもん。差別を可能にする言説空間自体が豊穣なのよ。『ハンチバック』だってそうでしょう。ジェイソンライトマン『ヤング≒アダルト』も登場人物が主役も含めて差別意識の塊。でもなぜか笑ってしまう。どの作品でも作者が差別を肯定なんかしてないだろうことは明らかだろうけど。
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いいデータでおお!となったが、一応言っておくと、私は「ハゲネタで笑えない人が結構いる」ことを否定してるのではないのよ。むしろ「結構多いんだろうな」と思ってる。なんなら数で現状建前なら多数派なのかもしれないくらいには「だろうな」と思ってる。そのことと「そうじゃない人も一定数いる」「そうじゃないを前提にしてる人たちがそこそこいてもおかしくないメディアである」ってことを【そもそも気づいてない】こととは話が別だろう、と言ってるんだよね。
私もハゲネタをおもしろいとはまったく思わないが「ハゲネタをおもしろいと思う人はいるんだろうな」って思うし、日常的に小学生のハゲや同性愛者やブスへの蔑視や差別に触れてるので「この年頃で今令和なのにそうなのね」とは思ってる。まあ、四国の田舎だから「遅れてる」だけで関西や関東の都市部では「そんなことない」のかもしれないが(皮肉)。
あとわしが言いたいのは「そっち」じゃないんだよな。こっち!ここ!ここがおもしろい話なんだよ!って方向にまったく行かないのがほんとすごい。私はそういう人がたくさんいることをよく理解しているが、「そちら」は「こちら」の存在すら認知してないというか、フレームワークに収まんないから、常にフレームワークにおさまるように変形するんだろうなって感じ。
残念ながら、ハゲネタや障がい者ネタ、ブスネタや同性愛者ネタを言いまくる人も、それをおもしろいと思う人もこの世界にはそれなりの数いるってのは「びっくり」するようなことではないと思うんだよな……。いや、あらためてびっくりはできるけど。
3時のヒロイン福田もそうだけど、容姿いじりは特に微妙になること多いんだよね。すんごいわかりやすい「ブス」ならまだハマりやすいんだけど、美の基準も多様化し、なんならお笑い芸人的なルックスのほうがむちゃんこかわいいやんって思う人も多い中、え?そこまで??という人を「この人ブスやないですかあ」と話振るのって「お客さんとの間の同意形成に初手から失敗」ってことで、その後その状態で笑いとれってことだからハードモードすぎるんだよ。
女性のお笑い芸人「かわいくない」とか「ブス」をネタにしようとしても、そもそもみんな結構ルックスがいい。アジアン隅田とかブスブスいじられてたけど、スタイルはいいし、顔も別にブスと言われても納得に苦しむし、なんならメイクで多くの人が「かわいいです」に変化するくらいの感じなので、ブスいじりされても笑いにくい。
あとこれも何度も言ってるんだけど、自虐ネタに【ならないようにするために】「ツカミでハゲネタを自ら入れる」ことについて、それは何をしているのかという「機能」について、芸人の工夫や、笑いの構造について話してるんだけど、もう絶対そこの話はさせてくれないよね(笑)。
そういえば全然関係ないし勝手にサジェストしてきたんだけど、アゴが思いっきり「シャクレ」(本人がそう言ってる)ユーチューバーの動画を見た。なぜシャクレたのか、どんだけシャクレたのかをずっとネタにしてる。私は「シャクレ」を笑っていいとはまったく思わない。だけれど、多くの人はそのユーチューバーが何も言わずにゲーム実況や開封の儀をしたら「てか、シャクレてるだろ」「シャクレが凄すぎて入ってこない」「アゴ気になる」などと思うことは私には容易に想像できる(「え??そんな人いるの??」なんて到底思えない……)。そしてだから実際このユーチューバーはアゴを自分から「ネタ」にしにいってる。コメント欄は「気にしてるだろうに自らネタにしにいくマインドすごい」「尊敬する」などなど。気にしないと言ってもそれでつっきらせてもらえ「ない」んだよね。
いいとか悪いはさておき。「機能」の話をしているのだが、ものすごく強固に「矛盾がそもそもないようにする」フレームワークがあって、そこに収まるように最初から話を変形してしまうので話にならなくて、その話にならないだと分析になってないからまずいだろ、に対し、「そんな話にはならない」(なぜなら話にならないようなフレームワークだから。現実とフレームワークは一致してない)と繰り返すんだよな。それじゃ逆に差別の根深さや容姿問題の難しさを思考できないじゃんって言ってるんだけど、下手するとものすごく単純化されて「あいつは容姿ネタを肯定してるぞ」の誤解まで秒で滑り込みそう。
Mastodonはじめとしたフェディバースには差別を憎む、少なくとも清らかな心だけは持っていることが確実な、そこそこの明確な問題意識と、世界をそのように強く見たいという願望をお持ちの方たちが大量に固まってるんだろうけれど、テレビやYouTubeといったメディアのオーディエンスが「同じ」とは限らないからな。「同じ」なら何でこの世に差別あるの?って話だし。そういう人たちからも見られてるメディアで、どう自分を「無徴化」してくのかって、それこそそのタレントなりユーチューバーなり芸人さんにとっては死活問題だからね。どうでもいいだろうけれど。
はっきりいって、そんな歪んだフレームワークだけから、同じフレームワークで物を見てる人たちにだね伝わる話を延々SNSで繰り返し、そのフレームワークを強固にすることに力を入れて、一体何になるの?って思う。
私は当然のことながら「あらゆる差別に反対」だが、元Twitterでの、すべてがプロコンだけで分類され、細部の分析や細かい例外、間のすべての連続体や、偏見を憎む人たちが強固に持つ偏見といっためんどくさい話が全部捨象されてくあり方に強い疑問を持っている。フェディバースならTwitterと違って、今ならワンチャン話通じるかと思ったが、少し前からそれも無理なんだろうなと悟ってきたところ。言論ってほんとは「そういうこと」だと思うんだけれど、そんな言論観も主演AI助演アルゴリズム、舞台はソーシャルネットワーク!な現在ではミイラくらいに古いんだろう。フェディバースという場所が悪いんじゃなくて、どんどん「めんどくささ」が必要とされなくなってきてるってことなんだろうなと。めんどくささはインプレッション稼げないし。すじこ食べてサウナ入ってドイツ語やろっと。
別に偽悪ぶるつもりはまったくないんだけど、こんだけSNSが発達して、正直なんも理解してないアホでも、人間性終わってるクズでも、自分がまともなことを信じてるまともな人間だと擬態したり、それをSNS上でアピールすることで「つながる」ことがクッソ容易になったなと。
ほんと多分日本語読めてないんだよね。あと、自分が問題にしたくないことは問題じゃないことにしたがる。
たとえば私は「容姿を自らいじることにはこういう背景がある」「こういう機能を持っている」と言ってるだけなんだけど、多分そういうことも伝わってなさそう。まあいいけど。
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学習だよね。あれがすべてとかあれこそが「お笑い」と言われると「は???」とはなるが、「そういう笑いもある」がわかったほうがわからないよりは豊かだと思う。とはいえ、わかるかわからないかと、好き嫌いはまた別。
なんか吉本的なノリっていうのか。あれが嫌いな人がいるのはとてもよくわかるし、「わからない」人がいるのもよくわかるし、あそこから排除されてるものなんてたくさんあると思うんだけど、あのフォーマットが結構多くの人に刺さってるって事実すら認めなかったら「なんだそれ」だよね。自分はわっかりやすい、フォーマットに乗りまくったポップミュージックとか愛好しといてそれだったりとかさあ。
でも、なんかその手のお笑いに、差別かどうかとかそんなことは別にして、憎しみを感じてんだろうなあって人がやたらいるのは結構気になるよね。たとえば私はバカリズムのコントが全然おもしろいと思えないんだが、あれがおもしろいと思う人がなんでおもしろいと思うのかはわかる。なんていうか好き嫌いとわかるわからないとか笑える笑えないとか全部分けたほうがいいよね。自分には「わかるけれど笑えない」(不謹慎だからとかそういう意味ではなくて)なんていっぱいある。
ゆかいな議事録のネタも結局見たのか?という。見ることで加担するんじゃないかとか当事者には厳しいとかほんとその通りだと思うけど、自分は今回見てみた。それによって考えることもあったし、見た結果「単なるヘイトにしかなってない」という結論に変わりはないけれど、でもそういうのが大事なのでは?と思ってる。ふだんから右寄りのネタばっかりやってる人がここでもやらかした、じゃないんだよね。むしろ普段の自分たちのネタの笑えなさをカバーしようとして最悪な方向に転んだ感じがする。調べればこの人たちの思想信条はもっとゴリゴリの保守なのかもしれないけれど、少なくともアウトプットから受けた印象はそう。
自分もいわゆるいじり芸はまったく好きではないけれど、ものすごーーーく偏った人たちでネット上で、ちんぷんかんぷんなお笑い論を論じてても仕方ないのでは。「好きでもないしむしろ嫌い、笑いもしないしできないけど、これをおもしろいと思う人がいるのはわかる」みたいなことは自分には結構ありますけどね。
差別をしなければ笑いは取れないとはまったく思わないけれど、差別や社会の矛盾と笑いが密接に関係していることは疑いないでしょう。
事件発覚するまでは(てか、とっくに発覚してたし、それを予見して然るべきなのだが)フツーに愛好し問題なく消費してたくせに、いざ事が発覚すると叩く側に回る。そら批判するしかないし、そうなんだけど、ほんとおめでたいな、と思わざるを得ないよね。
だから多分まったく伝わってないと思うし、他人がなぜそんなことを言っていて、どうしてそう考えてるのかを体系的に理解しようとする気がない人には(「他者」が常に欠落してる人には)わからないだろうけど、過渡期として現象を見ていて、それが興味深いって言ってるんだよね。ネガティブな容姿について言及することがまだ必要な側面があるけれど、逆に言えば「もう必要なくなってきてる」「それで合意が形成できなくなってる」「むしろリスキー」になってる。だから容姿への言及は最低限だし、最低限で済ますために「ツカミ」に入れたり、言及はするけどネガティブにはできるだけ言及しないようにするとか、そういうことがすごく上手い、って言ってるんだけど、まあ伝わらんよね。
棚、入れ替えてみた。トーキングヘッズ『リメインインライト』、ルーリード『メタルマシーンミュージック』、クルアンビン『モルデカイ』、NRBQ『スクラップ』、ダーティプロジェクターズ『ビテオルカ』、マザーズオブインベンション『ルーベンアンドザジェッツ』、セルジュゲーンスブール『メロディネルソンの物語』。
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