浮世絵が江戸の庶民に愛された芸術だっていうとき、その「庶民」とは誰かってことは重要なんだけど、そういう問いはほとんど起きない
浮世絵が江戸の庶民に愛された芸術だっていうとき、その「庶民」とは誰かってことは重要なんだけど、そういう問いはほとんど起きない
これ見にいかなきゃな
版画の青春 小野忠重と版画運動
―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち―
https://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2024-540
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@on1000mark 読んでないんですがたぶん加納実紀代『女たちの〈銃後〉』がそうではないかと
https://amzn.asia/d/gERMTXp
直接「国防婦人会」でなければ、『この国の芸術』に掲載されている、嶋田美子「なぜ私は「日本人慰安婦像になって」みなければいけなかったのか?」と、吉良智子「女流美術家奉公隊 ––帝国の女性アーティストたち」は同時期の女性問題について扱っていて、関心には沿うようにおもいます。嶋田さんの論考はとくにおもしろかったです。
"原告となる医師が働く病院には以前、グーグルマップのクチコミ対策に取り組むという会社から資料が送られてきたことがある。 そこには病院のクチコミを印刷した紙が同封されており、「批判的なクチコミは採用活動などに悪影響を及ぼす」「クチコミの非表示化対策をおすすめする」などと有料サービスを紹介してきたという。 「クチコミを消せるのはグーグルか書き込んだ本人だけなので、第三者が消せるわけがなく、詐欺であることが明らかです」とその医師は指摘する" https://www.bengo4.com/c_23/n_17405/
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本物の(ってなんだという感じだが)研究論文を読むと、資料にたいする精度が自分みたいな素人と段違いに詳しくて感動するな
自分の現在の関心にめちゃくちゃ被っているので「近代における風俗史研究と美人画の着物」を読んでいるけど、うわーそこまで読解できるのかーと感動している
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000098
明治30年代に三越で継続的に小袖の展示があったが、天明年間を絶頂期とする先入観があったとするのはかなり興味深い。天明年間は狂歌を筆頭に文化が華奢を極めた時代であるから、という理由らしい。浮世絵の場合いまだに天明・寛政期を絶頂期とする歴史観が支配的で、たぶん大正期に確立されたものだと思っていたけど、もっと遡ることができそうである。
めちゃくちゃおもしろかった。自分の調べている領域に対しては決定的な論考だ。
ファッション史的な視点ないと読めなそうな領域があるなーと薄々感じていたけど、資料をもとに、描かれた絵における女性と、当時のファッションの流行と、江戸期の衣裳研究の進展とを絡めて、読解がすばらしすぎる。
イラン“大使館にイスラエルが攻撃”と非難 安保理緊急会合へ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20240402/k10014409861000.html
#www3_nhk_or_news #イスラエル #イスラエル_パレスチナ #イラン #ニュース深掘り #国際 #NHK #ニュース #NHK_NEWS_WEB
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男性のロールモデルって宇部興産に就職すること以外あったんかな...。
シンジくんが宇部新川駅でなんか就職したっぽいの、あーってなったよ。
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能力が高い人の給与を上げていけば生産効率はあがるけど、そのぶん失業も増えマクロで見ればネガティブな効果がある、とかそういうのはどうなんだろう。生産効率とは?って話、結局一人で二人分の仕事ができるということを意味するのであれば(労働の機械化・自動化も含む)、失業が増えるモデルにしかならないような。
あと、「一人で二人分の仕事ができる」について、「同一の労働」を1時間で終わらせるか2時間で終わらせるか、という話もあるけど、価格転嫁のほうが重要だと最近はおもう。倍の時間がかかっても倍の価格で売れるなら問題ない。労働内容が固定だと仮定されるのもどうなんだ。
「時雨堂 では評価制度が無い。つまり従業員の給与は全員同一である。これは職業関係なく技術と総務、全て同じ金額である。また、賞与の評価も無く、会社が用意した賞与総額金を従業員の人数で割る。」
パレスチナの入植地で「歴史の偉大さを伝えるツアーのガイドをしている」イスラエル人のインタビュー、やばいというか...。異常なのだけど、異常さの自覚がゼロで、このくらいの考えのイスラエル人がどのくらいいるのだろうか...。
https://digital.asahi.com/articles/ASS3Z74BKS3YUHBI003.html?ptoken=01HTF4JRZF8E88HADEWSMQS0KB
買ってみた。歴博所蔵の着物中心に資料紹介されていて、パラパラめくって見るのが楽しい。
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東浩紀が、在野研究者が云々の記事の人が就職したらしく驚愕した、と言っていて、就職したっていいじゃん了見狭いな、とおもってたら大学教授になったってことなのね。それはたしかに在野研究とは...ってなる。
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あとでよむ
明治時代の新たなスキンケア | ポーラ文化研究所
https://www.cosmetic-culture.po-holdings.co.jp/culture/history/028.html
意味わからない
イスラエルの万博参加を容認「ロシアと同列扱い不適切」自見大臣(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/6ff1bf4f5381e583b29f025c3c5dd3be0b8cc551
ここから意見送れたので送った
お問い合わせフォーム | EXPO 2025 大阪・関西万博公式Webサイト
https://www.expo2025.or.jp/inquiry/form/
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BT 一連のスレッドとてもおもしろい。「身分登録」という把握の仕方はなるほどというか、国家が個人をどう管理・認識するかみたいな話かとおもう。
「戸籍」が身分登録の一種であるというのは、国家が個人をどう把握し処理するかで、某の子供というのは法的な単位として設計されているとおもう。ただ、これが単に特定個人を認識し把握できるためのなにかというだけのものであるはずもなく、家族とは国家が設計する法的単位でもあり、国家戦略の一部である。
「家族」は国家のグランドデザインの一部として作られているのはあきらかだとおもうけど(むしろ主要な存在かもしれない)、実生活上はあたかも実体として存在するものであるかのように扱われる(法的な実体なんだけど)。
ばあちゃんが「家族はええ」とか「家族だからみんな助けあわなければいけん」とか、そういうことをずっと言っている。祖母が家族という幻想のなかにいて、なんとなくみんなその夢を壊さないように振る舞うんだけど、「ばあちゃん、それは国家によって作りだされた幻想だよ」なんて言う気にはもちろんなれない。
そういうのをもやもや思いながら読んだ。
個人の持つリアリティと「家族」という制度とのあいだのギャップは、宮崎駿とか庵野秀明のアニメによく現れているとおもう。まあ、シンエヴァはあまりに予定調和的なオチであれだったけど...。
マイナンバーは個人識別システムだから戸籍制度に取って代わるべきものと思っているけど、まあたぶんそんなグランドデザインはなくグダグダ
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仕事でGDPRについて調べたときに、このへんは明らかにヨーロッパのほうが議論進んでるなとは思った。「個人の情報」が、日本だとCookieは個人情報であるとかないとかどうでもいい話しかほとんど出てこない(Cookieは個人情報ではありません)。ヨーロッパはアメリカITにやられてるからGDPRやってる面はあるけど、背景に「個人の情報」を誰がどのように扱うべきかという議論の蓄積がかなりあると感じる。
@lematin もともと、宮崎駿のほうが「家族」という物語を映画のなかで神話的に語っていたのに(トトロ、魔女宅など)、それをヌルいといわんばかりに「家族」が神話でしかないことを暴露したのが、もとのエヴァTV版だった、と考えています。
それがいまでは逆転して、宮崎駿のほうが自由恋愛にもとづく「家族」という物語の不穏さを描きだし(風立ちぬ、君たちはどう生きるかなど)、庵野秀明のほうが予定調和を描いてしまうのは、制度に対する批判的な視点の有無かなとおもっていました。庵野秀明は、「家族」というオブセッションをまさにオブセッションとして、個人の内面に起因する思い込みとして消化してしまうのに対して、宮崎駿は「家族」は「制度」だと見做すように物語設定をシフトさせてきたのではないかとおもおいます。
というようなことを『君たちはどう生きるか』を見終わったときに考えていました。
https://blog.tenjuu.net/2023/09/07/%E5%90%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B
庵野秀明が、家族を個人に起因するオブセッションだとして処理してしまうのは、権力関係を不問に付すことでもあり、事実上は長子(シンジ=神児)への権力の付与という構図をもちながら、主人公を弱者男性に偽装するというややこしさがありますね。
アーカイブ残るのかな、とくにそのようなアナウンスはなかったけど、過去のやつはだいたいアーカイブある気がする
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大観がつまらんはわかるけどもうちょっと留保がほしいのはある
無我とか迷児とか、あのへんはアホっぽくていい
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絶対的出来事、おもしろそうな概念だとおもったけど、事物性と分けられる事実としての出来事の存在って、世界では否応なく他者(人とは限らない)と出会っていて、そういう出会いの偶然性の無意味さ、みたいなものかな。べつに人が人と出会うというだけでなく、人がモノと出会うこと、モノがモノと出会うこともあり、出来事はそういうモノどうしの相互作用によって「出来事」である、とか。
モノの存在が欲望とか意識とかの対象として在り、自己のなかで自閉しているとすれば、出来事は世界のなかで起きており否応なく自閉的世界を壊している。とか、そういう意味で「無意味」なものとして立ち上がるのか?
メルロー=ポンティが、このプールの水は出掛けていってあそこの木に訪れている、みたいなことを言っているとき(水の反射のきらめきが糸杉に反映している、ということを言おうとしている)、それって水と木の出会いみたいなものが言われているとおもうのだけど、この場合モノ同士の出会い方はかなり詩的な出会い方をしているし、たぶんメルロー=ポンティはそう捉えていたんだろうとおもう。世界はモノどうしが出会う場であるとして、それがいい感じに出会ってしまうのがメルロー=ポンティだとしたら、サルトルはおなじことについて、自閉性が壊されるような他者の出現にイライラしていたのか?みたいなことが気になりました。そういう理解をしていっていいのかもよくわかっていないけど。
メルロー=ポンティ、世界との出会い方のモデルとして芸術家を考えていて、それと対比するようにデカルト哲学をいわば世界との出会い損ねとして考えているけど、世界のなかでの他者との出会い方みたいなことをそれぞれ考えていたんだろうか