監視資本主義未見だけど、自転車と現代の技術的な産物は違うっていうのはイリイチとか含む伝統ある議論でそれ踏まえてるんじゃないのって感じするけどな。すくなくとも、現代の視線から自転車とインターネットという技術的産物を比較して、自転車が適度なサイズの技術だって議論は荒唐無稽でもなんでもない。
https://twitter.com/mishiki/status/1643628842127335426
監視資本主義未見だけど、自転車と現代の技術的な産物は違うっていうのはイリイチとか含む伝統ある議論でそれ踏まえてるんじゃないのって感じするけどな。すくなくとも、現代の視線から自転車とインターネットという技術的産物を比較して、自転車が適度なサイズの技術だって議論は荒唐無稽でもなんでもない。
https://twitter.com/mishiki/status/1643628842127335426
自転車とインターネットの比較が荒唐無稽に見えるのかもしれないけど、技術的産物の有害性と役に立つ度合いのバランスの比較で、自転車は役に立つ度合いは高いが有害性は低い、インターネットは役に立つし有害性も高いっていって技術的産物の特性について分析するのはお気持ちでもなんでもない。
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80年代に日本で消費主義的な資本主義が発達してボードリヤールが熱心に読まれた、フランスでは彼はリアリティをもっていなかった、みたいなのを読んで、この対談がバブルの崩壊より前なんだけど、隔世の感がある
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ほんとかは知らないけどサクリファイスっぽさがある。
>ピエールの死の引き金となったのは、彼が自分の命を犠牲にする代わりに、イライザにAIを使って地球を救うよう求めたことだった。そう提案されたイライザはその行動を思いとどまらせるのではなく、「天国で一緒になる」ために、自殺をするよう促したのだった
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d3ee6ebd47ca3ac3716aecb02c769f4146779ef
ボブ・マーリー、白人と黒人のハーフで中南米から出てきて英語で歌うという、その存在じたいに強力な政治性がある。歌詞の内容も権利のために立ちあがれとかストレートに政治的なんだけど、それ以上に right がヨーロッパ生まれの概念でそれが英語で歌われるというのが強力すぎる。
こういうの読むと柄谷行人はほんとうに稚拙だなとおもう。いや、座談会とかを読んでてもそれは感じるけど。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/020418.html
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BT 一連のスレッドとてもおもしろい。「身分登録」という把握の仕方はなるほどというか、国家が個人をどう管理・認識するかみたいな話かとおもう。
「戸籍」が身分登録の一種であるというのは、国家が個人をどう把握し処理するかで、某の子供というのは法的な単位として設計されているとおもう。ただ、これが単に特定個人を認識し把握できるためのなにかというだけのものであるはずもなく、家族とは国家が設計する法的単位でもあり、国家戦略の一部である。
「家族」は国家のグランドデザインの一部として作られているのはあきらかだとおもうけど(むしろ主要な存在かもしれない)、実生活上はあたかも実体として存在するものであるかのように扱われる(法的な実体なんだけど)。
ばあちゃんが「家族はええ」とか「家族だからみんな助けあわなければいけん」とか、そういうことをずっと言っている。祖母が家族という幻想のなかにいて、なんとなくみんなその夢を壊さないように振る舞うんだけど、「ばあちゃん、それは国家によって作りだされた幻想だよ」なんて言う気にはもちろんなれない。
そういうのをもやもや思いながら読んだ。
個人の持つリアリティと「家族」という制度とのあいだのギャップは、宮崎駿とか庵野秀明のアニメによく現れているとおもう。まあ、シンエヴァはあまりに予定調和的なオチであれだったけど...。
マイナンバーは個人識別システムだから戸籍制度に取って代わるべきものと思っているけど、まあたぶんそんなグランドデザインはなくグダグダ
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仕事でGDPRについて調べたときに、このへんは明らかにヨーロッパのほうが議論進んでるなとは思った。「個人の情報」が、日本だとCookieは個人情報であるとかないとかどうでもいい話しかほとんど出てこない(Cookieは個人情報ではありません)。ヨーロッパはアメリカITにやられてるからGDPRやってる面はあるけど、背景に「個人の情報」を誰がどのように扱うべきかという議論の蓄積がかなりあると感じる。
@lematin もともと、宮崎駿のほうが「家族」という物語を映画のなかで神話的に語っていたのに(トトロ、魔女宅など)、それをヌルいといわんばかりに「家族」が神話でしかないことを暴露したのが、もとのエヴァTV版だった、と考えています。
それがいまでは逆転して、宮崎駿のほうが自由恋愛にもとづく「家族」という物語の不穏さを描きだし(風立ちぬ、君たちはどう生きるかなど)、庵野秀明のほうが予定調和を描いてしまうのは、制度に対する批判的な視点の有無かなとおもっていました。庵野秀明は、「家族」というオブセッションをまさにオブセッションとして、個人の内面に起因する思い込みとして消化してしまうのに対して、宮崎駿は「家族」は「制度」だと見做すように物語設定をシフトさせてきたのではないかとおもおいます。
というようなことを『君たちはどう生きるか』を見終わったときに考えていました。
https://blog.tenjuu.net/2023/09/07/%E5%90%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B
庵野秀明が、家族を個人に起因するオブセッションだとして処理してしまうのは、権力関係を不問に付すことでもあり、事実上は長子(シンジ=神児)への権力の付与という構図をもちながら、主人公を弱者男性に偽装するというややこしさがありますね。
アーカイブ残るのかな、とくにそのようなアナウンスはなかったけど、過去のやつはだいたいアーカイブある気がする
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大観がつまらんはわかるけどもうちょっと留保がほしいのはある
無我とか迷児とか、あのへんはアホっぽくていい
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絶対的出来事、おもしろそうな概念だとおもったけど、事物性と分けられる事実としての出来事の存在って、世界では否応なく他者(人とは限らない)と出会っていて、そういう出会いの偶然性の無意味さ、みたいなものかな。べつに人が人と出会うというだけでなく、人がモノと出会うこと、モノがモノと出会うこともあり、出来事はそういうモノどうしの相互作用によって「出来事」である、とか。
モノの存在が欲望とか意識とかの対象として在り、自己のなかで自閉しているとすれば、出来事は世界のなかで起きており否応なく自閉的世界を壊している。とか、そういう意味で「無意味」なものとして立ち上がるのか?
メルロー=ポンティが、このプールの水は出掛けていってあそこの木に訪れている、みたいなことを言っているとき(水の反射のきらめきが糸杉に反映している、ということを言おうとしている)、それって水と木の出会いみたいなものが言われているとおもうのだけど、この場合モノ同士の出会い方はかなり詩的な出会い方をしているし、たぶんメルロー=ポンティはそう捉えていたんだろうとおもう。世界はモノどうしが出会う場であるとして、それがいい感じに出会ってしまうのがメルロー=ポンティだとしたら、サルトルはおなじことについて、自閉性が壊されるような他者の出現にイライラしていたのか?みたいなことが気になりました。そういう理解をしていっていいのかもよくわかっていないけど。
メルロー=ポンティ、世界との出会い方のモデルとして芸術家を考えていて、それと対比するようにデカルト哲学をいわば世界との出会い損ねとして考えているけど、世界のなかでの他者との出会い方みたいなことをそれぞれ考えていたんだろうか