私刑は法治国家において云々という話がでるたびにもやるんだけど、私刑は通常の法の裁きの範疇の話であって、法治というのは政治過程が法によって支配されるべきという話だとおもうのだが...。私人に対して法の適用が云々ではなく。
私刑は法治国家において云々という話がでるたびにもやるんだけど、私刑は通常の法の裁きの範疇の話であって、法治というのは政治過程が法によって支配されるべきという話だとおもうのだが...。私人に対して法の適用が云々ではなく。
国立国会図書館、複写は著作権者の許諾なしでいけるっぽいのにPDF化には許諾が必要ってなっているの、どういう理屈なんだ
https://www.ndl.go.jp/jp/help/remote.html
日米開戦より、そのまえ10年くらい続いていた日中戦争のほうがはるかに重要な意義というかなにか探るべきものがある気がするな
これはおもしろそうな
https://www.amazon.co.jp/dp/4823411293/
途中まで読んでけっこうおもしろい、あとで読む
https://slowinternet.jp/article/20230413/
映画が「映画のようなもの」になっているというぼんやりした違和感。それはデジタル化に関わっていると思う。というところから。
文語定型詩から口語自由詩になったときに、「散文は詩ではないではないか」という議論が起きた。それに対して萩原朔太郎が散文詩の擁護として、形式的な定型とリズムを区別する理屈を立てた。
北原白秋が、短歌っぽい韻律の詩を書いたら短歌界隈の連中に短歌として批評されてムカついた、という話。改行によって成立する詩を、改行なしでスラッシュで表現され、短歌として扱われた。
田村隆一「腐刻画」
二連詩。
連と連の空白、断絶によって、「彼」から「私」に視点が転換する。その断絶を隠喩として利用している。
「レイアウトの法則」佐々木正人、鈴木一誌
書物は、物体としての側面、レイアウトとしての側面、テクストとしての側面がある。
レイアウトとしての書物が意識されているとき、書物の物質的な厚みは忘れられる。テキストとして意識されるとき、レイアウトの平面性は忘れられる。
コンピュータスクリーンのようにテキストだけが配置される場でなくなったときに、改めてテキストが配置される場とはなにかという問い・実験が行われている
中尾太一「夜明けのアーミン」
引用されたときに、意図しないところで改行されると詩の組成が変わる、という意味で引用しづらい。
最果タヒ
もともとネット上でasciiアートのようなテキストを発表していた。印刷物にしたときの改行の恣意性。
原稿用紙で、改行して段を下げるときはたんに横に配置すればよかったけど、キーボードを使うようになると、改行した上でスペース連打する必要が出てきた。空間的な作業だったものがリテラルに時間的になっている。
映画作家が、どんな映画作ってるんですか?って聞かれたときyoutubeのリンクを渡したりするけど、youtuberとどう違うんだろうと内省することがある
まあ、作品と作品のあいだに明確な空隙があって、作品という単位として自立するのって一時期の概念だよなと思う。