おやや、山頂の博物館を訪問するため、こちらのぼったくりケーブルカー(Žičara Dubrovnik)を利用せねばなりませんが、朝一の便に乗ろうとしましたら既に日本人団体観光客が並んでいますね。
おやや、山頂の博物館を訪問するため、こちらのぼったくりケーブルカー(Žičara Dubrovnik)を利用せねばなりませんが、朝一の便に乗ろうとしましたら既に日本人団体観光客が並んでいますね。
日本人団体観光客は山頂からDubrovnik(ドゥブロヴニク)市街を眺めてケーブルカーでとんぼ返りするようですが、自分は博物館に向かわねばなりませんね。
Ragusa(ラグーザ)共和国亡き後のナポレオン一世統治下に建設された要塞跡を利用したMuzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)に到着ですね。
山頂の要塞跡にMuzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)を開設したのは、来訪する観光客にケーブルカーを使わせてより多く収奪するためではなく、1991〜1992年のユーゴスラビア軍侵攻時に要塞跡がDubrovnik(ドゥブロヴニク)防衛に重要な役割を果たしたからのようですね。
Muzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)、軍事作戦やDubrovnik(ドゥブロヴニク)の被害、市民生活などなど展示内容が異常に細かいですね。
Muzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)では、Zagreb(ザグレブ)市内にかつて存在したMaršal(元帥)の名を冠した駐屯地からのJugoslavija(ユーゴスラビア)連邦軍撤退についての展示をやっていて、これまた説明が細かいですね。
Muzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)のある要塞跡、1975の文字が入った落書きを見かけますが、Jugoslavija(ユーゴスラビア)時代の落書きなんですかねえ…
次の博物館に向かうため、ぼったくりケーブルカーでとんぼ返りしますが、行きとはまた別の日本人団体観光客が並んでいますし、雰囲気や訛りが台湾人オーラを放つ中華系団体観光客も並んでいますね。
Dubrovnik(ドゥブロヴニク)のバスターミナルに程近いMuzej crvene povijesti(赤の歴史博物館)に到着のようですね。
Jugonostalgija(ユーゴノスタルギヤ)な家族連れなのか、Jugoslavija(ユーゴスラビア)時代の音楽を聴いて踊っているようですね。
Muzej crvene povijesti(赤の歴史博物館)、Jugoslavija(ユーゴスラビア)の暗黒面についての展示も見られますね。
Muzej crvene povijesti(赤の歴史博物館)、現在よりはるかに多くの市民が旧市街に住んでいたJugoslavija(ユーゴスラビア)時代のDubrovnik(ドゥブロヴニク)の写真も見られますね。
Dubrovnik(ドゥブロヴニク)、共産主義政権時代に作られた第二次世界大戦時の出来事を祈念した石碑が多くあって、現存するものもしないものもあるようなんですね。
Muzej Domovinskog rata Dubrovnik(ドゥブロヴニク祖国戦争博物館)のみならず、Dubrovnik(ドゥブロヴニク)旧市街でも1991〜1992年の戦争被害に関する展示があちこちで見られますね。
Dubrovnik(ドゥブロヴニク)旧市街でなくその周辺部に住んでいる人々の民俗博物館(Etnografski muzej u žitnici "Rupe")も観ておきますね。
おやや、Dubrovnik(ドゥブロヴニク)旧市街に住んでいたヨーロッパかぶれ?な人々はさておき、その周辺部の人々は山の向こう側のオスマン帝国支配下の人々とさほど変わらぬ出で立ちをしていたようですね。
銃器もオスマン帝国内のおそらく現Kosovës/Косово(コソボ)のGjakova/Gjakovë/Ђаковица(ジャコヴァ/ジャコヴィツァ)あたりで生産されたものを使っていたようですね。
Dubrovnik(ドゥブロヴニク)は、これまで訪問したシェンゲン圏外の諸都市と異なり、保護犬?を全く見なくなり、保護猫?もほとんど見かけずさみしいですね。