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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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毎日ジムに行き割と健康してたんだけど!コロナになりホテルに収容されてから、どんどん不健康になってる。外に出れない。食べ物は三食弁当。筋力は落ち、頭はぼーっとする。落ち込んでるので出てくる言葉にもパワーがない。
でも、そういうのそのまま出しちゃう感じでやってますね。SNSをじゃなくて人生を。
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「宗教っぽい商品が何が何でもダメ」がおかしいのはその通りだし、バスソルトと壺を同じにしちゃいけないというのも納得しかないけど、そこから「傷ついた女性にあの文言でバスソルト売ってくフェミニスト」のビジネスモデルに問題ないことは必ずしも導けないし、SNSの短い文言じゃ、まるで「お墨付き」与えたようにも見えてしまうんですよね。
......みたいなこと書いてくと、ほんとものの見事にSNSでは言論として「映えない」っすね。
確かに何百万の壺を借金させてまで買わせる組織的構造的ビジネスと、高くても千円二千円のバスソルトをインフルエンサー通じてプロモする手工業を一緒に語るような態度が、スピリチュアル批判以前に「SNSによる事物のクソミソ化」でしかなく大問題だろう。
他方でなんだろう。このガッカリ感、そして引っかかりは。
統一教会とバスソルトを同じように語ってもらっては困る。その通り。だが昨今某界隈で連発されるキナ臭さに「傷ついてる人たちをエンパワメントするという体裁で実は無知にするビジネスに接続する、収奪構造」を強く感じる。
Twitterでなんか言ってもすぐ対立のどちら陣営かというフレームで解釈されるし、有効な問題意識があるかよりも、否定できる要因ばかりにフォーカスされるし、それに合わせて「基本、知識がないドクズ」として口きかれる。それに慣れてるからそんなもんかと思うけど、あらためて考えてみたら無茶苦茶やなと。
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恋する(おとめ)は紹介あったので読んでみたら、ちょっとこれ、政治的にむしろ当事者は引っかかるのでは?と思ったところもあったので「夢がある」と聞いてなるほどなと。
自分が語りたいことを語りたいように語ると、たいていの他人にとっては、黙らせる、特定の視点を取らせなくする効果があるだろうから、あんまり話したくないんだよな。
昔はそれでも「誰かに聞いてもらいたい」ってあったけど、だんだんなくなったし、最近では「話したいことがあるなら、ポッドキャストで一人で話せばいい。聞きたい人がいればポッドキャストを聞くように」ってできるから、マジで人を押しのけて話したいことってのもない。
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最近はあきらめちゃってて、なんか話す前に書く前に「まあ聞く気ないよな」「わかる気もないな」って思うようになってきた。長くてややこしい話に人はついていけない、いきたくないだろうし。
これ読みたいんだけど、とっととKindleで出してくれないかな。なんで紙が先なの? 出しゃいいじゃん、Kindleも。同時に。
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明日でホテル療養1週間が経過し、無事退出になるわけだが、妻から「うつされたら死ぬ。PCRで陰性出るまで家に帰ってくるな」と言われている。どうしたらいいですかとホテルの看護師さんに問い合わせたところ「7日で退所と厚労省が決めている」「厚労省が」「厚労省でそう決まってる」と繰り返すばかりで、なんつうか、その。この国と、この国の人たち、みな事実自体を「国に決めてもらう」癖が強すぎやしない? 「ああ、それは国のルールっすよね。7日経ってれば感染のリスクとか確率ってどんなもんなんすか」と聞くけれど「国は7日で隔離はストップだと決めてます」と質問とは全然違う答え出すボットになってて。「でも、そんなの国が決めたからそうですって戦時中と同じじゃないっすか」と言ったら「そうですね」。
もうダメだこの国。
この国は原発事故であんなことあったのに、いまだに「事実は国が決める」なのですよ。そこがもうとことん終わってんな、って話で。
本屋さんに行ったら、ひろゆきの本のすぐそばに「なぜ私たちはあの人の「論破」にだまされるのか」と帯に書かれた『ストーリーが世界を滅ぼす』(原題は“The Story Paradox”)を置いているのを見つけてしまい、思わずわるい笑顔が出た
言葉が通じない。聞いてない。だから怖くなってまた人と話そうとする、人にたずねるのだが同じことの繰り返し。
オンライン忘年会があるというので参加してみたいけど。どうせ話が合わないんだよな。「合わない」ってのは趣味とかそういうことじゃなくて、自分が話したいことを話したいように話すと「浮く」っていうか。
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どっちが正しいとかおかしいとかではなく、そもそも別に論理的に矛盾してない(どちらも同時に成り立つ)のに言い争ってる例ばかりにSNSではなってる。勝手に対立を創られるというか。私は皆がおもしろいものを「おもしろい」と思える感性も大事だし、それは特に政治を変えたいとか人に伝えたいなら絶対にそうだと思うし、「おもしろい」と「おもしろいけどダメ」の区別をする上でもとても大事だと思ってる。でも、別にそれは「おもろい」を至上とすることと等しくはない。
どちらの意見が正しい?の前に矛盾してないのに対立する意味がわからない。①みながおもしろいと思うものを「笑えない」などと言って無能扱いするような「中学生的自意識肥大」はやめよう、訓練して感性を磨こうって話と、②笑えさえすれば何でもいいのか。お笑いはそんなに偉いのか。笑い至上主義は間違ってるって、【同時に成り立つ】ので対立ですらないんだけど。
私がとても引っかかってるのは、特定の対象をざっくり全否定で「おもんない」「笑えない」と言う時、主にリベラルや左を自任してるような人がそれを言う時、それが「面白がってる人を無能」扱いし「自分はお前ら無能とは違う」「政治的に正しい意見を持った倫理的に正しい人間である」という主張になってることなんですよ。「お前ら無能とは違う」って態度を取る、大人になっても「伝える」ことの重要さを理解せず単に正しいこと言えば伝わると思ってる、自己の卓越化、他者との差異化ばかり気にしてる無能の意見を聞き入れらたいと人は思わないという、単純な真実すら理解できない無能があなたなのであり、大変レベルが低いし、倫理観も能力もすべて下劣、私はそんなあなたたちとはまったく異なると言ってるんです。私の言うこと、聞く気になりましたか?
笑いには「劣位のものをいたぶり、それを笑いだから遊びだからと反抗させずに受け入れさせていく」側面は確実にある。けれども他方で笑いには「伝えにくいことを伝えにくい相手に上手く伝える」という効果もある。「伝えにくいことを伝えにくい相手に上手く伝える」なんて、もしあなたが政治や日本、世界の成り行きに強い興味があって、社会を変えたいと強く願っているなら、めちゃくちゃ必要になるスキルではないですか?問題を指摘するなとか笑いが一番偉い、笑えさえすればいいとかそういうことではなくて。でも「くだらないお笑い芸人」がただくだらないものとしてしかあなたの心に映らないのは、単に「伝える」ことに何も一切心を砕いていないあなたという鏡が曲がってるだけの可能性があると思いますよ。
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私はほとんどテレビを見ない(家にテレビがない生活がもう20年以上。単純にNHKに払うようなカネがない)が、たまにテレビ見ると、「芸人って話芸すげえな……」と思いますけどね。でもそこでのお笑いって志向性の水準(orders of intentionality)が高いものも多くて。要するに「ガクが粗品が川北の芸風は粗品と似てると思ってるという話をせいやから聞かされたという話を川北にしたって話を川北が粗品にした」とかそういうこと。これはその手の理解が苦手な方にとってはわかりにくいし、おもしろくないと思う。だから「おもしろくない」「楽しめない」はわかるけど、でも自分がわからないものはまるでこの世に存在しないかのように、存在してはならないかのように言うのがイラッとするんですよね。いや、わかってないだけやんと。
たとえば、トーク番組なんか見てると、「今こいつは間接的にはこう言うたのと同じことになってるぞ」とかめちゃくちゃあるんだよね。こういうのってハイコンテキストが苦手な人にはつまらないと思う。だからその手の番組が楽しめないのはわかるのだが、それに比べると漫才ってあまりそういうのがないのでは。でも漫才にも「おもんない」とか文句言うのよな。なんなんだ。
これ「松本人志」のスキャンダルなんじゃなくて「吉本」のスキャンダルなんだよね。吉本って、しばらくダウンタウンが稼働しなくてもメシ食えるくらいの台所事情でしたっけ。文春砲を受けて、SNSには「私も松本人志にナンパされた」「後輩芸人に女衒された」の証言がバンバン出てきてる。真偽のほどはそれこそSNSなので何とも言えないのだが、もし真ならこれを機会に吉本もぶっとぶしぶっとべばいいのでは。そして吉本とともに万博もぶっとび、あらやだ。維新の会もぶっとぶじゃん! 大阪大丈夫?息してる?めっちゃ息してますてか息吹き返しました!
「いじり」って言葉もめっちゃ簡単に使われるようになったよな。そして全否定。「いじり」という名目で嫌がらせやいじめ、ハラスメントが行われうる、そうした危険性が非常に高いことは一切否定せんけれど、「つついておもろが出てくるかウーチングする」機能についても同時に否定してる感じなのもなんだかなあって感じ。
私は会話はリスクだと思ってて。「もしかしたら聞かれたくないことかもしれない」を想定したら基本ほぼすべてのことがそれに当たる可能性を想定できるので何も聞けない。でも、他方で聞いてもらいたいことかもしれない。軽く「いじって」ジャブする。ダメなら引っ込める。喜んでそうなら掘ってく。相手に対する理解を深めてくのが大事なんだけど、当然「常に読み切れる」とも限らないわけで。可能な限りのチューニングともし誤ったら謝る。それが大事だと思ってはいるのだが、しかし、会話で一切リスク冒さず、ただただマグロな人がめちゃ多い中、リスク取る人の評価が低くなるのもなんかやってらんないなって。こうやって「人間」は終わっていき「AI搭載のサル」の時代になってくのかな。ついていけないです。
告発を無効化したくないが、かといって事実を自分が確認できない場合、どういう態度をみんな取るべきだと思ってるんだろう。
リスクを自分は一切冒さない=冒す能力がないくせに、他人の失点ばかりを否定して、自分の価値を相対的に高める、卓越化するなんてゲームばっかやってる人間なんて評価できるわけないじゃん。
テキスト型SNS常駐民の「お笑い」に対するコンプレックスすごいな……。私は「しょせんお笑い」と思ってるからむしろ「なんでそんな否定すんの」と思ってるのだが……。
いやあ、ほんとお笑い?ってムカつきますよね!笑いのフリして人を傷つけてるだけの、倫理観が完全に欠如したゴミみたいな連中。権力関係の確立した小さなサークルの中で暴力起こしたりいじめを「遊び」と混同したりとかして、人権意識のカケラもないようなクソ野郎ども。
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ふるさと納税喜んでしてる人たちが「原発反対」ってなあ.....っていっつも思ってた。まあ、そもそもそんな制度をつくる連中が悪いんだけど......。
説明してて思ったんだけど、どこぞのフェミ団体とかカウンター団体とこれだけだと変わらないな……。結局、どこの集団もものすごく権力的な問題抱えてるんだよな。あ、だからって誰かが何かを許されたりとかそういうことじゃないっす!
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昔、私はレイプされた、相手は信じられないかもしれないがXさんだ、でも誰も信じてくれないと言われたことがある。疑えば告発の無化になるし、セカンドレイプにもなりかねない。というか信じるしかないだろ……と信じて動いていたのだが、後から実はその人が仕方のない事情でそう言っていただけで、レイプの事実はなかった……という経験したことがあります。こういうときの判断ってすごく難しくないですか。SNSだとそうとは思わない人たちしかいないみたいですが。
そして慌てて付け足すんだけど、そうだからこそ、権力あって、周囲からはとてもいい人と思われてる人が延々と性加害を繰り返したりもするんですよね……。
みなさんに喜んでいただけるようなことを言うのがどんどん難しくなってきたし、都合悪いめんどくさいことしか思いつかなくなったのでほんと潮時なんだろうな。
高松の「まほろば」ってお店のぶり照り焼き。ここの照り焼きがとても美味しくて、感動したのでまた食べにきました。
ボイコット、すべてを矛盾なくやるのは無理なんだからあくまで「できれば」くらいのものだと思うんですよね。別に自分の中で矛盾があったりすることくらいはいいと思うんだけど、他人をバカにするために使われたりすると違うよなと。「Amazonは使わないで!労働者の権利について考えて!」とか言いつつUber eats使ったり、「noteをまだ使ってるんですか?リンク貼られても絶対見ません!」って人が今でも「X」を使ってる。なんだかなあと。
あまりにも松本人志が「お笑い」と同化してたから、こんなしょーーもない反応があちこちで出まくってるんだろうけど、松本人志と等号で結べるほど小さなものじゃないよね、お笑いって。それこそ単に松本のプロパガンダにのせられてるだけじゃんね。
たぶんぼくは普段まったくテレビ見ないし、なんかダウンタウンにそこまで大きなものも期待してないので、フツーにたまに見る松本人志はきちんとおもしろいんだよな。みんなイメージで物を見てるんだろうなと。
自分はテレビ見てても「今のはあかんやろ」っでツッコミながら見てるし、「人権意識の高い」方が気づかない問題に気づいたりもするし。まったく擁護する気はハナからないけれど、なんかこの語られ方の紋切り、濁流。一言で言って「なんも考えてない偉そうなバカ」感がどんどん許せなくなってきてるのよな。
遅れた意識でゴミみたいなことやってる遅れた人たちと、そこに汚染されることなく、高邁な理念と倫理的な実践を続けてきた自分たち。みたいな枠組みから物事を語っているのを見たらそりゃ気持ち悪いって思うよ。本人たちは気づいてないだろうけど。
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私も最大限、ジャニーズでも吉本でも批判するししたいけどさ。自分だけが時代の拘束を受けてなかったかのように神視点で物を言う、大変高潔なクズが目に入ると、元の事件とは別に人間って本当にどうしようもねえなって悲しくなるんだよ。
あんまそういうこと考えたことないでしょ。自分が「間違えない」ことにしか興味のないアホには。そしてそういう人たちがSNSで何やってるかって、正義をコミュニケーションツールとして使って、小さな共同体で相互承認してるだけなんで、自分たちが批判してる集団と同じような問題抱えてることも客観視できないでしょ。
いろんな言葉の使い方があるけれど、「正しい」と「おもしろい」は二次元にしたほうがどう考えても解像度上がるのでそのようにしてる。混ぜて話をするメリットがないんで。