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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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いや、好奇心があって本当に音楽に対する気持ちがフレッシュなんだと思う。岩下さんが紹介されてるアーティストや楽曲、よく聴いています。
自分はなんかいろんなことに興味が湧かなくなってきてしまった。他方で昔を掘ってったら「クリケッツやべえ……」とかなってしまい、いつまで経っても終わらない。それもそれで楽しい音楽ライフだからいいけどね。
オンラインゲームやってると「お前おもしろいな。オレらのディスコ(Discord)に来いよ」とサーバに入れてもらうことがあるのだが、明らかに全員中高生。向こうはこちらのことを「中坊」だと思ってて、大学生が「おっさん」呼ばわりされる世界。今週末にはもう44歳になる、12歳の娘がいるおっさんだとはとても言えない……。「おすすめ音楽」なるチャンネルがあり、みんながボカロ曲のリンクを貼り付けてる中、スクリーミングJホーキンスのI put a spell on youのリンク貼ってきた。
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最近のWeb記事、マジでつまんないもん......。RSSフィードで記事読むとわかる。確かに読むと「ああ、いいもの読んだな」と思うときがあるのだが、別に見出しだけでよくね?って内容だったり、同じ時間で別のことしたほうが実は満足度高かったり。Wezzy終了もなんかひとつの節目感ある。
何度も言ってるけれど、今、記事はAI使って書けるし、読むほうすらAI使って読む。「私はそんなことしていない、しない!」と思ってる人だって、既にSNSでアルゴリズムを通した後のものを読んでいる。これは要するにAIに「下読み」させてるのと同じ。
AIはじめとしたテクノロジーのおかげでコンテンツ生産は圧倒的に効率化され簡単になった。ところが人間の可処分時間は一切増えないのだから、フィルタリングは必然になってしまう。
これからの時代は機械が消費するものを機械を使ってつくることになる。もちろんそんなの嫌だという人たちがいて「直接味わいたい」って人もいるので、その人向けの商機もありそう。
Discordのサーバ運営について。
自分はまず「そんなに人数増えない」ようにしてる。あまり人数増えるとDiscordにする意味がまったくない。だったらSNSでやってって感じ。数百人でも多い。数千人なんてもってのほか。アクティブ40人で限界だろう。
ルールは決めてない。「森の独裁」と言っている。これはルールを決めてもルールの適用についてのルールが決まらないので無限背進になりがちだから。「差別は禁止」と言ったって言ってる人たちだって「なんで?これは別に差別じゃないよ?意見だよ?」ってなる。それが差別なのかどうかという「事実」を争うことになるので、だったら最初から「特に理由ないけど、管理者の判断でキックしたりバンしたりあります」と了承とっておくほうがいい。
ここしか居場所がなければ仕方ないけれど、Discordのいいところは無数にサーバがあるところなので、一箇所で出禁くらっても別の場所に行けばいいだけ。逆に言えば「ここしか依存先がない」ような人にいられてもなあって感じ。そうやってWEB上に複数の居場所をみんなでつくっていけばいいのではないか。
案内もあえて不親切にしてる。「#はじめに読んで」というチャンネルをつくってある。ここまで辿り着けない人は、ネット上で不特定多数とこのプラットフォームでやりとりしてもディスコミュニケーションやストレスのほうが多いだろう。「#はじめに読んで」を読めば「自己紹介してね」と書いているので、自己紹介をしてくれるはず。何を書いたらいいかわからない人のためにフォーマットは置いてあるから、その通りに書けば迷わない。
サーバは誰でもリンク踏めば入れるようにしており、入れたらボイスチャットには参加できるようになっているけれど、アクティブなユーザーとして承認されActiveというロールが付与されるまでは他のテキストチャットは一切見えない。サーバの多くのユーザはボイチャはあまりしておらず、テキストでの交流がメインなので、テキストへのアクセスは少し厳しくしてる。
Web記事の「つまらなさ」は動画のスピードに追いついてないからだと思う。自分も徹底的な活字人間で「そんなん動画で見るのだるい。文字で読ませて」ってなるほうなんだが、それでも動画のスピード感はジャンルによってはすごい。先日「コード進行」について子どもに説明しようと思って動画探したのだが「10分でわかるコード進行」みたいな動画がゴロゴロあり、どれもとんでもなく腑に落ちるものだった。同じことをテキストだけでやろうと思ったら相当まどろっこしくなるし、今の若い人は文字を長時間「読めれない」人も相当多いんだろうなと思う。実際youtuberの誤字り率の高さはすごい。「そんだけ耳もよければ動画も上手いし賢いのになぜwarをワーと読むんだ.....」とかめっちゃある。
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youtubeでの動画やその説明の「体感としてのスピード」に慣れてしまうと、いかに多くのweb記事が「お前らの都合であえてスピードを落としているか」がわかってしまう(わかんない人は多分何も考えてない)。たとえばWeb記事の原稿ならまずは字数が先に決まってる。だからこそ開ける世界もあるのだが、逆に言えば「4行箇条書きで書けばとりま結論が書ける」話を延々長文に「書き直して」いたりする。また、Web記事は媒体へのアクセス数を増やし広告を見てもらったり、サブスクしてもらうことが目的になるので「ヒキ」が多くなる。「最初にTL;DRでまとめとけよ」「要点書いとけよ」とこちらは思うのに、そっちは「続きは次のページへ」をやりたがる。要点でまとめろと言われないために要点にまとめにくいようなダラダラなトークや、トークの文章化がしばしば掲載されるのだが、だったら動画のほうがいいんだよ!になるっていう。
何でもコスパって風潮を自分は是とはしないし、むしろ積極的に争っていきたいけれど、単に原稿依頼が3000字だから、あと1000字どう書こうかなあで書かれた記事なんてコスパじゃなくてクオリティの問題でしょ。読み手や顧客のことも考えて、それでも伝えにくいことを一生懸命文字にした結果、わかりにくくなるのは仕方ないと思うけれど、多くが「必要だから書かれた記事が媒体にのった」のではなく「媒体を維持するために記事が必要になった」を感じさせる。
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自分も「文章を書く」ことに興味をなくしてしまった。一番は「もう誰も読んでない」と思うから。文章どころかSNSのショート投稿ですらろくに読んでない(笑)。賢い人は要点だけ箇条書きしてもツーカーで伝わる。そうじゃない人は書いてもそもそも読んでない。だったら箇条書きで書いておいておくか、みたいな気持ち。自分も他人にそうしてほしいって思うようにもなってきた。
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米山隆一とひろゆきの動画、少し見たけれど、別にひろゆきが論破されてるのって「いつものこと」ではと。それでも彼は自分が勝ってる演出できちゃうし今まで通り今回もしてた。問題はそれなのに今回は「ひろゆき惨敗」とみんながコメント欄で言ってることで、要するに単にひろゆきの「論破王」というキャラが飽きられたんだと思う。「論破王」というキャラでの無双がおもしろい間は「また勝った」なんだけど、それを楽しみ尽くしたら「それなのに負けた笑」をコンテンツとしてまた消費するだけ。ひろゆき以上に無責任なのが視聴者だと思いますけど。
あの動画で「なんとひろゆき論破された!」と思ってる人って、要するに今までは論破されてないと思ってたりするわけでしょ。今回ひろゆきが「論破された」と言えるのもなぜなのか。その理由が「あきらかにまばたきが多い」とかなのも苦笑しかない。
サウナについての話題をたまたま目にし、言いたいことがあったので久々にTwitterに投稿したけれど、文字数も少ないし、カネ払って認証つけてる人が圧倒的に有利だし普段から活動してないからランク評価も下げられてるんだろう。ほぼほぼまったく反応がない。(なくていい)
中川家のこのシリーズ、ほんとヤバい。冒頭の今昔亭今昔とアシスタントの「みれいちゃん」の会話の、この絶妙な不愉快とつまらなさ。そしてこの振りからのゲストはテンダラーの回。https://youtu.be/gi0zmApeUSQ?si=YezLL5c56LWkvB7P
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何でもそうだけど、自分が最高にいいと思ってるものを「無理」と言ってる人見ると「わかってないなあ」って言いたくなるのが人間で、そのため、逆に「俺はあれ嫌い」とわざわざ相手に言わせることになってる。サウナの水風呂がその典型。めんどくさい。各人が自分の好みで入りたければ入ればいいし、入らなくても楽しいですよ。ただ、一回足つけて「もう無理」とか言ってる人は、いや、別にいいけれど、世の中のたいていのことって「一回チャレンジしたから」を超えたところにおもしろみがあったりもする、そのことだけは理解しとけよってだけで。
しいたけとかパクチー最初にちょっと食べて「自分はあれが永久に嫌い」って決めつけるのもったいないじゃんか。別に嫌いでもいいんだけど、ファーストコンタクトがよくなかったのだろうって可能性も抱いて生きたほうが生きやすいと思う。
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相手と何かのテーマで議論してるのに、その相手のスキャンダルを持ち出すのは、アドホミネム(対人論法)という超メジャーな詭弁でひろゆきが皆が見る配信番組で米山に対して堂々とやってるのはまさにその詭弁。単に視聴者が詭弁を詭弁だと理解できてないだけ。
「得られない」ことよりも「前ほどほしくない」とか「ほしいけれどどうしたらいいかわからない」のほうが辛いのかもしれない。
自分は本を出したいとか、有名人になりたいとかが本当に全然ない。そういうので大人同士がつながってる世界もどこか苦手。まあそこまでなら「そうか」なんだけど、たとえば娘にこう思われたいとかそんなのもない。自分が死ぬ時には娘に悲しんでほしいとかも、本当に、まーーーったくない。むしろこちらを心配して悲しんだり暗くなってほしくない。医療上の手続きとか、こちらの苦痛軽減のために何かやれることやったら、あとは自宅でスプラでも原神でもしててほしいなと。そういう「欲」すらない。自由っちゃ自由だけど、その悟った状態にある自分をスランプだとも感じる。2023年はそんなスランプな自分をなんとかする一年だったかもしれない。
自分が嫉妬を感じるのは、絵や音楽ができる人かなあ。楽しそう。それもプロや売れてる人が羨ましいというよりは一定以上のクオリティでそうしたアクティビティ自体を楽しめてる人に嫉妬を感じてしまう。ベース持ってブルースセッションに飛び入り参加、みたいなことできる人羨ましい。嫉妬。でもそれ以外は特に……という感じ。
無茶苦茶なこと言うけれど、でもほんとそうなのは、人生って同じ「人間」なので比べてしまいそうになるが、これはもう、全員やったく異なる条件でまったく異なるゲームをやってるので、他人と自分と比べてもマジで仕方ないなと心の底から悟ってしまってるんだと思う。悟ると悩みや迷いからは解放されるので一見良さげに見えるけれども、生きてる間にする暇つぶしがない。ゲームやったり酒を飲んだり。それは楽しいことだけれど、それくらいしかしたいことがないというのは、これまたただただ虚しかったりする。
欲望し享楽を感じる能力も加齢とともに衰える。意識や価値観も気づいたら変わってた。たとえば本や映画をたくさん見ることに価値を見出すのがなんかバカらしくなった。そういうことができる人をとても尊敬はしているのだけれど、世の中には薄い内容の本だって無茶苦茶あるし、本から得る情報のほうがYouTubeやTikTokよりも高尚であるかのような決めつけもむしろ「物の見方が一面的で人生に深みがないからなんじゃないの?」と思ったり。
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ネット、SNS黎明期世代のうちらアラフォーアラフィフは、もう自分らが「新しいものを吸収する能力がない」ことを一定程度認めるというか、そうなることも想定した上でのフェイルセーフを今から構築しておかないとまずいと思うんだけど、なんか自分らのこと若いと思ってるだけの思慮のない同年代もたくさんいらっしゃって、みんな「自分たちより上の老人たちはただただ変化できなくて置いてかれたが自分はそうならない」と決めてかかってるの、「若えな」って思う。
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SNSの言葉、もう「誰に投げてるのかわからない」というか、誰にも投げてなくて。独り言を独り言じゃないことにする結構だけがそこにあり、それがSNSと呼ばれてるだけなのだけれど、そんなことばっかりやってるから、どんどん人を1人の信念体系や人生経験を持つ一定の層の厚さを持った存在として、想像して、その人に届くように工夫して話す、ってことがとにかくみんなでヘタクソになった。結果、いつでもどこでも成り立つ、空中に浮いた正義だけがただただ繰り返されて。そういうことをもっと問題視してもいいと思うんだけど、そうはなってないね。
「正しい」には普遍性があるから、それだけ言ってればめっちゃ楽なんですよ。でも本当は個人個人がきちんと時間をかけて「腑に落とす」って作業が必要だし「相手に伝える」って、今、相手がなんでそんなことを考えてて、その考えは相手の思考の体系の中でどういった布置になってるのかを考え、どうしてそんな思考体系になったか、その人が生きてきた歴史や経験を想像し、【そこから逆算して】どのような【表現】をするかを工夫することなんだけど、SNSの言葉は「投網」だから。もうそういうことをする能力がどんどん衰えて。それでいつでもどこでも例外なく正しいことを言えばいいってコミュニケーションになっちゃってる。そのことがとてもつまらないし、どうなのかな。我々の大事なものをガリガリ掘り崩してると思う。
こういうことを言うよりもね、いまみんなが話題にしてる、特定の話題について、「それは明らかにおかしいからおかしい」「間違ってるから間違ってる」っていう、ーかり」すい具体的な話ばかりが好まれる。
まず「正しい」だけを学習するの。簡単なことでSNSで「よさそう」「正しそう」な人をフォローし、その人がフォローしてる人たちをフォローする。何かあればそれらの投稿をリポスト。これだけやってれば同じ「正しい」を信じてるということで、誰かに接近して、誰かと「コミュニケーション」を取ることができる。でも、それは自分からしたら人と人のコミュニケーションじゃねえよな、そうじゃなかったよな?という思いがどうしても拭えない。自分が言ってることが既に意味不明なぼやきにしかなってない世界に既になっており、この失地回復は無理ゲーでこれからどうなるかは予測できてんだけど、もうそんな世界にまったく興味が持てないんだよな。
あえて言えば「正しいこと」なんかよりもよっぽど大事なことってあるだろうって思ってる。それは人を楽しませること。会話できちんとボール持って、お互いにパスもできない、しない人間が何言ってんだ?と。
「ともにいること」の技術が急速に失われてる気がして。ネットで正解ばかり探してそれを「再投稿」ばっかりしてるんじゃなくて。大事なのは目の前の人とどのような関係を作っていけるか。リスクをきちんと冒しながら、上手くいかなかったことは細かく修正しっていう。それを積み上げていけるか。すごく大事なことだと思うんだよね。