デザインという意図をもった製作物を「排除アート」と呼びなおしてしまうの、たぶんトマソンの流れに接続しているんですよね。トマソンはデザインの意図が脱臼された結果のものだけど、排除アートと呼ぶのはデザインの意図の隠蔽に近いものがあるとおもう。
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
デザインという意図をもった製作物を「排除アート」と呼びなおしてしまうの、たぶんトマソンの流れに接続しているんですよね。トマソンはデザインの意図が脱臼された結果のものだけど、排除アートと呼ぶのはデザインの意図の隠蔽に近いものがあるとおもう。
「排除アート」という呼び方になんとなくシックリきてしまう感性は、日本において「デザイン」という行為自体の認識されづらさがあるような気はする。都市やモノが意図をもって設計されていると思っていないというか。
This account is not set to public on notestock.
エリック・ドルフィー『at the five spot』。なんと言ってもB面まるまる使ったLike a Someone in Loveが最高。
This account is not set to public on notestock.
ザ・バーズ『霧の五次元』。このアルバム、バーズの中では最も後世への影響が大きいんじゃないだろうか。美しいマッギンのギターに、新機軸のオーケストラ。音楽のまぜまぜぐせが行くとこまで行って、どこかニューウェーブくさい。大好き。
ビーチボーイズ『リトルデュースクーペ』。なんか持ってるレコードが音いいな。元の録音がいいんだろうか。コーラスがすっごく美味しく感じる。
AC/DC『If you want blood』。とにかく頭の悪い音、ジャケが最高。Let there be rockは全人類聴いてください。
AC/DCは、とにかくマルコム・ヤングのギターがすごくいいというか、バンドのキャラクターを決めてるよな。あとこのバンド、アレンジ上手くない? いつもワンパターン、金太郎飴みたいに見せて、飽きずにそれを食べさせるためにめちゃくちゃ頭使ってる。曲順なんかもよくて、大団円の後のブルースとか。そして、ブルースマナーの曲も上手いんだよなー。
今年はなぜか突然「本を読むなんてくだらない」って思った年でした。なんかね、知りたいことを知る。そのために本を読むのは楽しいし大事なんだけど、そういうわけでもないのに本を読むっていうのがね。「本を読む」んだからすごく「いいこと」してる感じが一瞬しますけど、まずその思い込み自体が「バカをバカにしてるインテリのバカムーブ」だったりもするわけじゃないですか。それにつまんない本読んでる時間って端的に無駄だし、人生にとってただただ有害だと思うんですよね。「つまんない本読んでる時間はマジで何も考えてないクソ時間」ってショーペンハウエルって人も同じようなことを本で言ってました。つまらない本が「つまらない」ってわかんない人もこの世の中にはたくさんいて、周りの人がおもしろいって言ってるからってSNSでそう褒めるんですよね。で、すぐ話題じゃなくなる。そういうのもバカらしくない?
https://kokeshiwabuki.hatenablog.com/entry/2023/12/19/215838
で、それでも最初は無理して本を読んでいたんだけど、逆に本を読むのやめようって。つまんない本読む時間より、そこそこおいしいもの食べたり、美しい自然を見たり、サウナや温泉入ったり、酒飲んでる時間のほうがいい時間かもしんないですしね。たくさん本を読んでるけど、たくさん本を読んでるだけの人よりも、一切本を読まずに毎日セックスばっかしてる人のほうが、ハッピーだし倫理的だし賢いしおもしろくて魅力的で、真面目に人生に向き合ってるかもしれないじゃないですか。
自分は今年は、コロナの後遺症もあってかやる気も起きず、好奇心もほぼほぼ死滅して、本を読んでも全然楽しくなかった一年でした。それもそれでいいかなって。無理して読んでも仕方ないし、そうやって距離とってみたら、いかに出版社やその周辺のメディアがあの手この手で、我々の時間を一生懸命奪おうとしてるのかって気づいた。たとえば、人生の最後の瞬間にそれでも本を読んでいたいですか?って話なんですよ。あれ、他人、他人て言っても所詮は「割と賢めのサル」が書いただけの人工物じゃないですか。そんなもんに最後時間費やしたい?って。そうしたいって人はそうすればいいと思うし、それは全然悪いことではないけれど。そういう風に特定のインプットに対する信仰を相対化し距離を取れたのがよかった。
問題は何を読むか、インプットするかじゃなくて、で、どういうアウトプットをするか、じゃないですか。おもしろいアウトプットのために量も質もあるインプットが大事なのはその通りなんだけど、インプットしたからといってアウトプットが良質になるとは限らない、単にインプットしてるだけの人なんてゴロゴロいるわけで。
みんな本を読んでるフリしてるだけですよ。プルーストとか読んでる人って自分以外に一人しか会ったことないもん。百年の孤独も別にあんなの、単におもしろいお話集めた小説ってだけなのにこれまた読破してる人ってほとんど聞かない。じゃあ読んだ自分が読まないお前らより優秀なのかっていうと、別にそういうわけでもないし。人間、ほっとくと死ぬし、認知には限界あるし、なんていうか。「限界を知る」ことすら知らないようなあっさい人間の好奇心なんて、たかが知れてるとも言えるよなと。
人によって胃袋も違うしさ。大食いの人がたくさん食べてるからって自分も同じ量食べようなんて思わないじゃん。なのに本だと「自分も同じくらいたくさん読みたいな」って思ってしまう。まあ気持ちわかるし、自分もそう思っちゃうんだけど。だけど「読む」ってなんだろうねと。純粋にたくさん本を読めたり、健全にそれを咀嚼してる人を見ると尊敬するし、微笑ましくもあるけれど、別にそれで自分がコンプレックスを感じる必要なんてまったくないよね。自分に必要なものは何か。他人じゃなくて自分に耳傾けていくべきだなと。今、自分は百人一首を一首ずつ、腑に落ちるまで唱えて繰り返して考えてってネチネチやるのが楽しい。
とかなんとか言いながら、グレアム・スウィフト『ウォーターランド』を読んだり、トマス・アクィナスを読んだりしてんだけど......。
ほんと元のこの記事の通りで。無理して読まない。開き直るってのも大事だし、そうこうしてるうちに読めるようになってきたり。自分は今年、お酒飲んで温泉入ってキャンプいって自転車こいでってそんなことばっかしてました。たぶん成人してから年間読書数最低なんじゃないかな。でも、なんか最近「読める」が戻ってきた感じなんですよね。
あと、なんかすっごく「紙の本バカバカしい」って思った一年だった。もう見るだけでイラッとして。だってダサいし重いし偉そうなんだもん(バカ)。でも、これがまた不思議なもんで、最近は紙で読むのが楽しいのよ(どないやねん)。単純な理由として、もう年なので本当にスマホの画面がキツい......。あとスクリーンは「読み終わる」って経験がないので、次の本や他の本、別のウェブが目に入るのがとても落ち着かない。「いまここ」に集中できる紙の良さを再認識した一年でした。
↑に書いてきた通り、何の定見もないし、結論も出てこないというか、出したと思った結論が「やっぱり違う」な一年だったなあ......。ホルモンが不安定で、ホルモンによって「昨日までおもしろいと思ったことが今日はまったく何も感じない」みたいなことが連発して。ほんとどうしようもないんだけど。
This account is not set to public on notestock.
もちろん快楽のためにも読むし、自分は「退屈」のためにも読みます。「快楽のため」ってこと自体が特定の価値観に基づいて「役にたつ」からやってるってことだし、別にそれが悪いわけではまったくないけど「なんじゃこら」に会うのがおもしろいってところでもあるので「読んでてムカムカする」とか「まったく理解できん」とか「退屈で何度も寝落ちした」とかを【求めて】本を読む時【も】ある。
元記事にある「時間を決めて読む」ってのも今年は意識してやってました。ポモドーロのタイマー回してその時間で読むようにしたんですよね。そうすると1ポモドーロ=25分で読めるページ数がだいたいわかってくる。自分の場合は1ポモドーロで25ページ。つまり5分休憩とって1時間で50ページしか読めないってわかるんですよ。てことはあとは「時間をそこに割く」か「割かない」かってだけなんで。読めない、読めてないと自分を責めたりイライラすることがなくなりました。
「本当ならもっと読めてもいいのに読めない」ってことに人はストレスを感じるわけですよね。でも、計ってみたら1時間で50ページが限界。ってことは100ページ読むのに2時間かかるわけ。今読んでるグレアムスウィフトは500ページあるので10時間はかかるのだから、1日1時間読書しても10日、つまり1/3ヶ月かかるのは「仕方ない」なんですよね。変に自分を責めなくなる。
読書も読めば読むほどいろいろ考えたり引き出しも増えるから、ちょっと読むだけであれこれ思いついちゃって。読むの早くなるかと思ったら、加齢もあって年々どんどん読むのが遅くなってる。まあ、でも、それもそれでいいかって感じだよね。っていうか、正しい読書だよなーって。
あと過去に自分が読んだ本をよく読み直した一年でした。読んでると「これ、あそこに書いてあったあれの話とめっちゃつながるじゃん」「ちょっとまって。ってことはめっちゃおもしろくない?」とかやってた。で、読み直しが発生すると。そう言う本は読み直してもおもしろいし、読み直した先でまた別の本の読み直しが発生するから全然読書が先に進まなくて。楽しいけど疲れちゃって。途中から本じゃなくて鳥を見に行くようになってました。
元記事の「複数の本を同時に読む」はこれまでは意識してやってたけど、今年は途中から意識して「やらない」ようにしはじめました。理由は「あれもこれも」となると、スクリーンだとマジで収集つかなくなるからです......。それで疲れてしまった。そしてどの本も70%くらいでやめちゃうんですよ。それもそれでいい読書経験なんだけど、少しずつ「未読」がたまってくのも気持ち悪いので、読み切ってから次を読む、目の前に集中する、もちろん読めないなら途中でほかしてもう読まなくても全然かまわない!ってするようにしました。
2024年はたくさん本を読もうと思う。おかげさまでいろいろ回復したからさ。「読めない」ときに無理に読まない、開き直っていいってほんとその通りだと思ったな。
てか、本だけじゃないな。何かを「読む」ということが「くだらない」と思った一年だった。SNSの投稿だってそう。自分が「読めない」体になってそういうふうに思うようになるんだから、ほんと人間って勝手だよな。その「勝手」にも悟りを得た一年だった。
This account is not set to public on notestock.
徳島の飲食店、いいとか悪いとかおいしいとかまずいとかの前に、商売人として当たり前のことを当たり前にしてほしい。挨拶しろとか愛想よくしろとかそれ以前の話。やたら臨時休業しないで……。やってる時は「やってる」、やってない時は「やってない」と外から見てわかるようにして。バイト募集やメニュー表を張り出したまま、そのまま息を引き取ってるだろうお店も多すぎ。
SNSについても「醒めた」一年だったなあ。今後は「伝わらない人には伝わらない」ことをそういう文章で書いていきたい。むしろ伝わったら負け、多数に広がったら負け、みたいな。
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
This account is not set to public on notestock.
「それぞれがそれぞれの正義を掲げて争っている」といった主張に対して「いや、正義とはそういうものではないんで」みたいなツッコミもされてるのよく見るけど、こんなのも単に言葉の定義の問題でしょ。過度に相対主義になるのはどうかと思うけど、「自分たちが正しい」という正義の押し付けが過去に、今、一体何をしているかという問題の指摘だと受け取ればいいだけだし、その直観すら否定する人はちょっとどうかしてるでしょ。
自分たちの見方や用語法と、それを採用する理由についてこだわるのは悪いことではないけれど、相手の見方や用語法に含まれてる重要なインサイトは何かって考えてかないと無意味な対立で終わってしまう。SNSはそういう無意味な対立で溢れているし、そうした無意味な対立が一体何をぶっ壊してるのかって反省なしに、ただただ正義の看板掲げてもしょうがないでしょ。
私は「正義の暴走」と書かれても、「そこでそれが暴走と言われるのはなぜかというと、そこに悪い、すなわち正義でないものが含まれてるからそう言われているってだけでは?」という用語法をとるけれども。
前の時代の悪いところを批判するのは全然いいし、むしろやんなきゃだし、ガンガンしちゃえ!なんだけど、前の時代には前の時代なりの重要な洞察とか、「なぜそうなったのか」とかあるわけでさ。同意はしなくてもいいけれど、そういう「理解」を欠いた批判ばっか続けてる人間の「思考」がどうなるかなんて、ちょっと本を読むなり、人生経験を深めるなり、他者や歴史に思いをはせればわかるはずなんだけど、それがわかんないわけでしょ。
SNSで、反対陣営の否定や批判ばかりをやってると、近視眼的になってしまい、運動や反対、批判の効果についてもコンサマトリー家していくと思うし、直近の過去のことすら忘れていってしまうわけでしょ。そうした「今この場だけのわかりやすい二項対立」にすべてがまとまって単純化していくと喜ぶ権力者だっているはずなんだけど、そういう思考すら持てなくて「左」だの「リベラル」だの言われてもなあ。
相対主義的な言説ななぜ起こってくるのか、じゃないですか。それには理由がある。その理由を理解すること。大事な洞察はきちんと拾うこと。と同時にそれでも「正義は正義である」と言い続けること。大事なのはややこしくスッキリしない話をだきつつ、ただただめんどい積み重ねをネチネチやってくことなんだけど、そういうのはSNSでウケないし、仲間から「日和見」だの「風見鶏」だのとののしられるわけだよね。やってられないし、その結果、バカみたいな対立だけが強化される。そしてそんな対立になれきった大衆を動員するほど簡単なこともないんだわ。
This account is not set to public on notestock.
今日も料理をつくりながらDiscordでボイチャします。19:00頃からかな。よろしかったら入ってきてください。#料理番組ってチャンネルにいます 。今日はユッケジャンと、あとマトンビリヤニの下ごしらえしておきます。
「正義は人それぞれ」「正義の暴走こそ怖い」という言葉に対しては、私も「正義は万人にとって正義である」「正義が暴走することは出来ない」ということを言いたいが、おそらく、それと一緒に「個別の事案については、私が考える正義は間違っているかも知れない。あなたの考える正義も、彼が考える正義も、間違っているかも知れない」という事を付け加える必要があるのだろう。
そうすれば、問題は言葉の定義の話になる。「正義(であると信じるところ)は人それぞれ」「正義(であると誰かが思い込んでいるところ)の暴走こそ怖い」という風に翻訳すれば話は通じる。
しかし問題はそこか? そうじゃないと思う。
「正義は万人にとって正義である」に付け加えるべきは、もうひとつある。「正義は万人にとって追求すべき価値である」という言葉だ。
「正義は人それぞれ」「正義の暴走こそ怖い」という言葉の裏に透けて見える「だから、正義なんてどうでも良い。追求すべきでない。他に考えることがあるだろう、金儲けとか、美味しい生活とか」という態度に対して、それは違うでしょう、という。
価値相対主義というより、ぬるい人生観に対する苛立ちだよね。
だからそんなの逆も言えちゃうじゃん。正義は万人が追求すべき、なんだけど、それが今どうなってると思う?っていう。私はどっちに振れるのも「ぬるいじゃん」って思う。バランスしながらきっちり相手の洞察も拾って、でもなおかつ、だからこそ「正義である」を言わなくちゃいけない、そのために考えなきゃいけないってことでしょ。ネットの連中なんてなんも考えてないじゃんだからイラつく。
This account is not set to public on notestock.
私は今、無邪気に「正義を追求すべきである」しか言わず、相手を「単なる幼稚なバカ」扱いして喜んでる人間の精神のほうがやっべーなって思うことが増えてる。相対主義ってだけでNGつって、そっから多分なんも考えてないしさ。
過去に正義だとされてる理念に基づいて無茶苦茶してることなんて無数にあるでしょ。そこから悲観的帰納法で考えれば「正義だと思ってることがそうじゃないことなんてザラにある」が言え、それは別の言葉で言えば「正義とはそいつの狂信的な思い込みである」になる。だから「相対主義になりすぎて理念の追求をやめるのはガキ」も「正義が暴力的に働くことも多々あると認められないのもガキ」で終了なんだけど、もうSNSのわかりやすい二元論、どっかで聞いてきた文句をテンプレ横展開して反応してるだけでしょと。
久しぶりにTwitterを見にいったけど、投稿がやっぱり段違いに「おもしろい」ですよ。おもしろい人たちのおもしろい投稿、その濃度が違う感じ。「層が厚い」というか。ほんとはそういう人たちが動いてくれれば……とは思うのだけど。
なんかさあ、「左」の人の「この手の発言を見たらこうだと返せ返すべき」って思いこみが強すぎて言論がねじ曲がって死んじゃってんだよね。