ある表現がその時代にとって早すぎた、みたいな評価のはなし興味深い
歴史語りのなかでしか発生しない物言いで、そういう語りが成立しているときには現在地点の表現物や価値観から遡行してその祖型として先行作品を評価している
ある表現がその時代にとって早すぎた、みたいな評価のはなし興味深い
歴史語りのなかでしか発生しない物言いで、そういう語りが成立しているときには現在地点の表現物や価値観から遡行してその祖型として先行作品を評価している
その先行例となる作品をつくった過去の作家の側では、同時代の価値観に反抗していることが多いけど、ある時代の美意識の規準というものは確実にある、その規準となるような美意識のほうが歴史には埋没しがちで、外れているほうが歴史的評価がしやすいと見えるのはたぶん革命史観
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デザインという意図をもった製作物を「排除アート」と呼びなおしてしまうの、たぶんトマソンの流れに接続しているんですよね。トマソンはデザインの意図が脱臼された結果のものだけど、排除アートと呼ぶのはデザインの意図の隠蔽に近いものがあるとおもう。
「排除アート」という呼び方になんとなくシックリきてしまう感性は、日本において「デザイン」という行為自体の認識されづらさがあるような気はする。都市やモノが意図をもって設計されていると思っていないというか。
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批判するのはいいけど具体的じゃないと意味ないな。どこだって経済活動してるんだから結託なんていくらでもある。
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