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Former editor, now a reluctant worker at humble civil society fund. Muttering restless something in Japanese.
And if you shake one end, You're gonna rock the other. It’s the same boat, brother.
そしてぱんだです。
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外側の模様編みの生地が終わったとこ。次は内袋で、ミシンの作業だ。
内ポケットをキルティングのハギレで作るから、バイアステープで縁取りしてから裏地に縫い付ける。クリップの位置を考えながらフラップを挟み込んで裏地と外側の生地を縫い合わせる。ここまで来たら編地を合体させて、3重の袋構造ができる。
クリップ用の角カンは編地のフラップと袋のつなぎ目から外に出るようにして、そのスキマを考慮しながら編地のフラップと袋を綴じ合わせて、最後に袋状になった外の生地と裏地を外表に返して手縫いで返し口を綴じる。
たぶんこの手順でいいはず。。
設計図も作らずに、いつも成り行き。全部自己流だから適当。頼まれて人に作ることもたまにあったけど、自分用に作るのがいちばん楽しい。
何日か前に、TVでChatGPTの話やってて、ごはん食べながら見てた。
小学校の道徳の授業で触ってみるという話題があって、「変なあだ名で呼ばれて困ってる」みたいな命題を、ChatGPTに相談してみる…という例。困りごとの解決策をAIに頼るかどうか、そうしたいという子どももいたし、自分で考えたいという子どももいるという話で、まあ「最後に判断するのは自分です」みたいな凡庸な学級会ぽい結論になってたんだけど。
親の教えか村の長老の知恵くらいしか知識の参照先がなかった時代に、西洋の学問を知識として習得したよそ者が教師としてやって来た「村の文明開化」みたいな状況との類似性を想像して、別に目新しい話でもないよね、と思った。親に相談するのと、AIに相談するのとで答えが違った時に、子どもはどう判断するんだろう。無学な親よりも、より広範な言語的リソースを参照しているAIのほうが信頼できる、ってなるのかどうか。
学問なんぞやらんで、おとなしく家業を継げばよいものを、近頃では余計な教育をしよる…と思った親だっていたでしょうから、自分を含む年寄りが得体の知れないAIを警戒する感覚って、そんな感じなのかもしれない。
で、「自分の言葉で考えたい」「自分の頭で考えたい」とカッコいいことを言った瞬間に、その言葉も知識も、この世に既にあるもので、それを参照しながら習得したものなのだという事実の前に、その矛盾が露呈してしまうわけで。
青春期にそういう事実の残酷さに打ちのめされたことが一度もない人こそが、「本当の自分」を探すナルシスティックな旅に出たりするんじゃないかと邪推している。
それでもなお、自分の言葉とは何か、必死に考えながら生きてきて、結局はご覧のとおり凡庸な大人になりましたが、とりあえず元気です。やっぱりまだ、今でも言葉を探しています。。