ヴォネガットの訃報を聞いたとき、いろんな人の追悼記事を日本語に訳して私家版の冊子を作ったりした。何かそういう事務作業が、当時の自分には必要だった。
坂本が自分の終わりを意識していたこと、こないだTVで見た演奏は、そういう演奏だったから、邪念もケレンミもあるやんちゃな音楽家が、自分の曲をああいう解釈で演奏したこと、あーそういうことかって、ざわざわする感じがあって。
自分が死んでいくこともよくわからなくなるような死に方を、80代の親二人の最期に見ていたから、後世に残していく自分の作品を世に送りながら自分の終わりと向き合う人の姿というのは、それとはまったく異なるもので、残酷でもあり、よかったねえ、と労いたいような後ろ姿でもあり。
またしても人の死に自分の思い出を重ねるのは、何だか誠実ではないような気がするのだけど、昨夜からずーっとむにゃむにゃもやもやしていて、無駄な言葉ばかりが頭の中で騒がしい。
しばしエンピツを削って、いちからやり直すデッサン修行の1枚目を始めようと思ったが、線が決まらず、そろそろリモートの始業時間となりました。。
思い込みと思い入れを排した、正確で機械的なデッサンが取れるようになるのが目標。。目と手が慣れるまでどのくらい時間がかかるかな。でもまだ自分は当分生きているみたいだから。