「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいままでなんのマシーンにレイジしてきたとおもってるんだ?アイスクリームのマシンか?」みたいな記事読んで、そういえばベンヤミンの「複製技術時代」で、俳優は機構に抗して演技している、労働者はふだんから機構に敗北しているから機構に勝利する俳優に釘付けになるんだ、みたいな議論してたのをおもいだした
「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいままでなんのマシーンにレイジしてきたとおもってるんだ?アイスクリームのマシンか?」みたいな記事読んで、そういえばベンヤミンの「複製技術時代」で、俳優は機構に抗して演技している、労働者はふだんから機構に敗北しているから機構に勝利する俳優に釘付けになるんだ、みたいな議論してたのをおもいだした
知覚はその時代のメディアによって組織されるという議論、敷衍すれば知覚を組織するにはメディアが必要だということになって、身体もまたメディアであり、つまり眼は取り外し可能なデバイスとおなじように機能するという議論になりそうなんだけど、どうなんだろう。身体に依存しない知覚主体と、知覚を生成する器官(身体=機械)とからなる心身二元論なのでは。
ベンヤミンは、「複製技術時代」で利用したこの観念が「技術の進歩」というイデオロギーとなんとなく結託してしまうから、歴史の天使という戯画を出してきたんだろうとおもうんだけど、そういう読みをしている人はいるのかな。
The Law of Leaky Abstractions
https://www.joelonsoftware.com/2002/11/11/the-law-of-leaky-abstractions/
おもしろかった。
TCP は必ず届く信頼できるプロトコルだが、IP は情報が届いたり届かなかったりする。だが TCP は IP という信頼できない情報網の上に成立している。これは魔法である。
ジョエルはこの魔法を説明するのに、ハリウッドに俳優を送りこむのに、俳優を車に乗せる方法を考える。この車は不幸にもしばしば事故によって俳優を死なせてしまったり、気付いたらその途中で俳優の見た目が変わっていたりするものとする。この自動車による俳優配送システムのうえに、ハリウッド・エクスプレスというサービスが構築され、このサービスは俳優を順番通りに完璧な状態で到着することを保証する。途中で事故があったら俳優の双子を届ける。途中で渋滞があっても、届くのを待つ側としてはちょっと遅いなとおもうくらいで、届くことは保証されている。
これがTCPという魔法で、コンピュータ科学で言う抽象化(abstraction)である。ハリウッドエクスプレスは、例外を処理してどうにか期待された結果になるようにしている。例外をハンドリングできていれば抽象が確実に機能するという幻想は保証されているが、例外なんていくらでもあるわけで、ルーターに繋がるケーブルが千切れていたらいかにTCPであれ届けようがない。これをジョエルは「抽象化の漏れ leaky abstraction」と呼ぶ。
この抽象と抽象化の漏れの話、メディアの透明化みたいな話だなとおもう。コンピュータが上手く機能しているときコンピュータの存在は忘れられている。ドナルド・ノーマンは、私は仕事をしたいのであってスプレッドシートを操作したいのではないというようなことを言ったけど、コンピュータを操作するとかスプレッドシートを操作するとかが意識されている内は、仕事に対して道具の具象性のほうが露出してしまっている。「あの値をこう計算したいんだけど、スプレッドシートの関数なんだっけ?」みたいなあれ。UIとはまさにこういった抽象化層で、もろもろ漏れがないように抽象化するわけだが、まあいずれにせよ人工物が人間の多様性と複雑性にかなうことはないだろう(漏れはかならずある)。
1980年代後半のコンピュータ科学がハイデガーの道具論を参照していたのと似た話でもある。人間は道具の操作の失敗に対処して目的を達成することができるが、AIはできなかった。それが彼らをハイデガーに向かわせた理由だけど、つまるところ人間は抽象のなかで生活しながら、いつも抽象化の漏れに対処している。
いまの仕事がnuxtだけど、仮想domをサーバーとブラウザで同期させて状態伝搬させるやつ、表面上はサーバー側もブラウザ側も同じスタイルで書けて良かったねになるけど、ネットワークの境界を曖昧にし過ぎて周辺に異常な複雑性を生み出している。とくにキャッシュのプラクティスが異常性高い。ストレートに抽象化の漏れの例なんだよな。
フレームワークがこの抽象を作り出しているけど、これはプログラマーのための抽象で、コンテキストスイッチが不要だったり、ブラウザとサーバーで処理の再利用ができたりする。そのために特定のランタイムが必要になる。これはフレームワークというより言語といったほうがいいのかもしれない。
サーバーサイドのフレームワークよりはるかに制約が強く、イリュージョンもかなり強固に効く。応用は利かない。
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「全てはオブジェクト」ってメタプログラミングの可能性の話で、ほかのメタプログラミングのアプローチにリプレイスされるようなものともおもえない。
メタプログラミングが不人気だという話はわかる。ただそれは通常のアプリケーションでメタプログラミングすんなという話で、必要な領域いくらでもあるとおもう。
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西洋中心主義の批判って岡倉のアジア論とか「近代の超克」とか京都学派とか大東亜共栄圏とかまあいろいろあり、日本ではもっと慎重に考えるべきことではないですかね。