00:08:44
2023-11-29 10:21:20 aqz/tamainaの投稿 aqz@p1.a9z.dev
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むかしは640kBでやれてた仕事と同等のことやるのに、なんでいまは100MBオーダーで使うんだよみたいな気持ちが、ずっとある。UIなどが格段にリッチになっているので単純に比べることはおかしいとしても、コンピューティングリソースあたりの生産性を指標にとると、めちゃくちゃ退化してないか
https://x.com/kunukunu/status/1729575356028375535

01:05:49
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浮世絵研究ってかなりおもしろい世界ではあるけど、「浮世絵研究」というフレームを打ち破ることが難しい世界でもある

01:15:24
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版画史、複製芸術史、出版史とか一歩引いてみることが必要だけど、「浮世絵」研究となると暗黙の強固なフレームが存在している。「浮世絵」という概念が「版画」や「複製芸術」「出版」「メディア」といった一般概念に還元されることを拒絶してしまう。「浮世絵」という概念の固有性は「日本美術」みたいな言葉より遥かに強固な磁場をもっている。

01:38:36
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縄文時代というのは世界史的には新石器時代になるから「縄文時代」という呼び方自体が日本固有の呼び方である、ということが『この国の芸術』に収録の「〈日本美術史〉の脱中心化」に記述がある。「浮世絵」という概念も「縄文」みたいなものではないかという気がする。「浮世絵」という言葉は元の風俗画的な意味を離れて「日本固有の」版画芸術というニュアンスを帯びすぎている。

02:11:09
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こういうの検討するのは工芸史とか考えるべきなのか。

02:42:03
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セカイ系、たぶん小林秀雄の私小説論に基礎を掘り下げることができる。小林の主張は、欧米の「私」は社会化されているが日本の「私」は社会化されていない、というもの。
ドストエフスキーが「欧米」かはわからないが、彼の小説にしても、ある場所で多様な人間が出会いぶつかり合うなかで「私」を配置しており、そのぶつかり合う場のことを小林が言う「社会」だと考えればいい。ドストエフスキーについていえば、そういう社会のなかで「私」の固有性は常に揺らいでいるわけだ。日本の私小説で「私」はそういう場に出会わないというのが小林の主張で、最近読みなおしてみたときに「あっそれはセカイ系じゃん」ておもったのでした。

02:48:59
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このへんはたぶん柄谷の日本近代文学の起源とかと重ねて考えることができるはずだけど、まだちゃんと読みなおせていない。
ついでにいえば、大正期に起こった吉田博らの新版画では近景の扱いが変化するのだけど、それは主観的な眼差しが誘われつつ、その風景から疎外されるようなものとして形成される。遠近法的な視覚の発達だと言えなくはないけど、問題は作図の発達にあるのではなく観念の変化にあって、自分の見解では、新版画は世界から遊離したものとしての自我の表現になっている。

02:51:41
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この意味で、吉田博が山に登って山から見た風景を描いたのは象徴的で、山とは人間社会が無い世界のことであり、自己を疎外すると同時に誘惑するものでもある。

03:06:53 03:07:56
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北斎にせよ広重にせよ、彼らが描く風景はつねに人間臭さがあって、言ってしまえば人間社会の延長に自然を配していたのだけど、吉田博描く自然には北斎や広重が描いた人間くささはなく、全く街の延長ではない。人間は身体的には自然の一部であり、その身体を包むものとしての風景があり、一方で、絵を見る観客としての「私」は、その風景に包まれつつ疎外される。なぜなら私の身体はいまここにあって山にあるわけではないのだから。北斎や広重の絵にはこのような疎外感がない。

18:34:04
2023-11-30 18:08:56 李氏の投稿 BLUE_PANOPTICON@fedibird.com
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19:01:49
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関係性の美学読まずに敵対と関係性の美学だけ読んでたけど、そのへんの流れで思弁的実在論とかOOOとか出てきたように見えていたのめちゃくちゃ嘘くせぇ〜っておもってたな。

19:17:27 19:22:59
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OOOあたりはまったく別文脈ででてきて、ようやく全体の文脈なんとなく把握できるようになったけど、15年くらい前の日本のアート関係では言ってみただけみたいな感じがあって、そういう雰囲気がとにかく嫌だったことだけ思いだしている。

20:15:03
2023-11-30 20:12:24 あたしかの投稿 wakalicht@fedibird.com
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20:38:32
2023-11-30 20:37:32 松浦知也 / Tomoya Matsuuraの投稿 tomoya@social.matsuuratomoya.com
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20:50:53
2023-11-30 20:41:08 松浦知也 / Tomoya Matsuuraの投稿 tomoya@social.matsuuratomoya.com
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20:52:49
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人文っぽい方面から出てきたものでなければ、ドナルド・ノーマン、一部でホワイトヘッドとか(Clojure界隈)

20:57:33
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ノーマンについては今後は続かないというか、この系統は後退していくだろうなと思うけど、clojureから出てきたホワイトヘッドはoop批判を含んでいるからメディア論的ではないコンピュータ関連の議論としておもしろい(ただプログラマー向けすぎる)

21:12:56
2023-11-30 21:03:40 松浦知也 / Tomoya Matsuuraの投稿 tomoya@social.matsuuratomoya.com
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23:33:34
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これはマティス展のカタログに掲載されていた論考よりはおもしろいけど、芸術の自律性については1mmも疑いがなくて、この枠組みのなかで立てられるあらゆる問いは芸術上の意味に還元されてしまうんだよな。芸術の外部は戦争だろうとなんだろうと完全に霧消してしまう。
http://www.kaminotane.com/2023/08/04/24105/

Web site image
第一回 導かれる線──アンリ・マティス【前篇】
23:45:23
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こういう分析のなかでは、昇華みたいなプロセスが仮定される夢判断みたいなものになる。