明治期の武者絵に加藤清正がしばしば描かれるが、あれは清正が朝鮮で恐れられていたからで、ということを踏まえると典型的に植民地主義的な図像なんだな...。
明治期の武者絵に加藤清正がしばしば描かれるが、あれは清正が朝鮮で恐れられていたからで、ということを踏まえると典型的に植民地主義的な図像なんだな...。
月岡芳年のこれとか。
これは「論語を読む猿」とかのエピソードがあるようで、清正が論語に朱筆を入れて読んでいたところ、猿がそれをみており、席を離れた際に猿が朱筆で論語をめちゃくちゃにした、みたいな話。人間と猿の対比は、深読みはいくらでもできる。
これは適当なことを言っているわけではなくて、「浮世絵界(1938年)」を読んでいたら「朝鮮支那との戦史を飾る武勇錦絵」(中村亮平)というテキストがあり、そこに「加藤清正の武者振り」とある。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1534155/1/19
日清戦争の錦絵は当時大量に出回り、それは報道的な価値があったからだけど(日清戦争とかを写真で撮っても間延びしているだけ)、武者絵はその同時期に描かれている。どうアプローチしていいかわからなかったんだけど、こういう記事を読むと武者絵はやっぱり日本の侵略戦争のアレゴリーとして読むべきなんだな。
中途採用しか知らない身としては新卒採用ってよくわからない世界だ...。
https://saize-lw.hatenablog.com/entry/2023/10/21/185938
中途は基本的には職務能力とその成長可能性、企業価値にマッチするかどうか、みたいなことしか見ない。新卒にはそういうのを評価する術もないので、コンピテンシーみたいな「行動特性」なるものを見ている体裁になっていて、それは仏性みたいな概念なんだが、仏性には信仰があるからいいけどコンピテンシーは科学を装っているだけにタチが悪い。自分からするとコンピテンシーなるもの人事部が信じるより他ない純然たる虚構でしかなく、さまざまな企業制度を歪ませているとおもっている。
採用とはおおくの場合賭けに過ぎないわけだから、その賭けに勝つ確率をあげるのに都合のいいのが学歴で、それも堂々と言うわけにいかないからコンピテンシーなる糞概念で誤魔化している。
新卒一括採用みたいなのがやっぱり駄目なんだよな...。出会いには常に当たり外れがあるということが制度・習慣上組み込まれていてほしいなとは思う。
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佐藤志乃「朦朧の時代」を読みはじめ、けっこうおもしろいけど、たまに大観や春草以前に「伝統的な日本画」というものが存在したかのように書いてしまっているのは、筆が滑っているだけにしてもいただけない。大観や春草以前には日本画というものはなくナントカ派の抱える様式があるのみで、それら派を排して一つの派として立ち上げたものが「日本画」であるはず。「日本画」の概念は国民国家の形成に完全に対応している。この事情を知らないはずもないとおもうけど、「伝統的な日本画」みたいな概念がでてくるのが怪しい記述だと感じる。
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