編集履歴 https://pleroma.tenjuu.net/objects/56b3ec08-6ba9-4709-bef0-14457357dc28
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1 | - | 北斎にせよ広重にせよ、彼らが描く風景はつねに人間臭さがあって、言ってしまえば人間社会の延長に自然を配していたのだけど、吉田博描く自然には北斎や広重が描いた人間くささはなく、全く街の延長ではない。人間は身体的には自然の一部であり、その身体を包むものとしての風景があり、絵を見る観客としての「私」は、その風景に包まれつつ疎外される。なぜなら私の身体はいまここにあって山にあるわけではないのだから。北斎や広重の絵にはこのような疎外感がない。 | |
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