12:22:09 @ncrt035@gnosia.info
2018-09-02 10:56:59 Eugen Rochkoの投稿 Gargron@mastodon.social
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14:12:42 @ncrt035@gnosia.info
2018-09-02 12:45:39 猫耳美少女の投稿 dasoran@mstdn.maud.io
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17:33:03 @ncrt035@gnosia.info
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鳥に流れてくるドルフロ絵に書かれたハングル文字が読めないの割と緊急性のある案件なのでなんとかしなくては

20:34:04 @ncrt035@gnosia.info
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Farrington, B.(1955), `The meaning of persona in De rerum natura III 58', Hermathena 85: 3-12.

nam verae voces tum demum pectore ab imo
eliciuntur <et> eripitur persona, manet res.
というのもそのときこそ胸の奥底から真実の声が引き出され,
<そして>仮面が剥ぎ取られ正体が残るのだから.

におけるpersonaは通例舞台の比喩として捉えられるが,そこにはむしろ人格・階級(地位)という社会的な意味を読み取るべきであるとする論文.
この解釈は,公的な生活から背を向ける個人主義的なエピクーロス派の思想とマッチしないように思われるが,著者はルクレーティウスが法律や社会制度に関する言葉づかいをしている箇所があるとし,また直前の文脈で語られている死への恐怖が人々をして競い争い合いながら生を送らせるものとして描かれていたことから,そこには死への恐怖がエピクーロス哲学において持つ社会的な意義が見出されると指摘する.

20:49:06 @ncrt035@gnosia.info
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パナイティオスのpersona論が導入されたローマにおいてこの言葉が帯びる社会的な意味合いは当時の知識階級にはよく理解されたはずなので,そういう馴染みある語彙を比喩として交えながらしかし最終的にはエピクーロス哲学へと導く,という戦略をルクレーティウスがとっていると考えるのは不可能ではなさそうだから面白い指摘だと思う.
ただこの場合でもpersonaという語は同じなので解釈としてnot the actor's mask, but the civic personとnot ... but で一方的にしてしまわずnot only ... but alsoくらいで両方の含みを考えてもよいかもしれない.実際ストア派の場合には両者を重ね合わせた表現が見られるようになっていくので(gnosia.info/@ncrt035/995862970 ).

20:49:36 @ncrt035@gnosia.info
2018-02-25 22:44:59 Niceratus Kiotoensisの投稿 ncrt035@gnosia.info
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Edwards, C. (2002), `Acting and Self-actualisations in imperial Rome: Some death Scene', in Greek and Roman Actors, Cambridge University Press: 377-394.

人間の社会生活を劇・舞台に喩えること自体は古いものだが,特にこの考え方はストア派,なかでもパナイティオスのpersona論(これはキケローが『義務について』の中で論じている)が導入されたローマにおいて大きく展開される.つまり舞台における役者の「仮面persona, πρόσωπον」とこの世界の中で各個人に割り当てられる運命とが重ね合わされ,賢者が自分に相応しい役を演じきる優れた役者に喩えられたり,常人の一貫性のなさが様々な仮面を取替え自らを偽る様に準えられたりする.
そしてこの生を劇と捉える考え方はストア派にとって重要なテーマである死(特に自殺)を論じるにあたっても用いられている.こうした「舞台の比喩」が特に帝政期ローマの哲学著作においてどのように使われているかを取り扱った論文.

21:04:59 @ncrt035@gnosia.info
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ところで58行の最後はOQなどの写本でmanareになっていて,manet resを伝えるのは15世紀の少数の写本のみ(画像はF = Laurentianus 35,31: 40v).

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