こう,「何もせずゴロゴロしてていいよ」って言われたら空調なしでもいけそうだけど何か仕事しようとすると涼しくないと無理.
こう,「何もせずゴロゴロしてていいよ」って言われたら空調なしでもいけそうだけど何か仕事しようとすると涼しくないと無理.
Ellis, R.(1899), `The Literary Relations of ‘Longinus’ and Manilius', Classical Review 13,6: 294.
https://doi.org/10.1017/S0009840X00080549
『崇高について』第13章の記述とと『アストロノミカ』第2巻序歌における記述の類似(とりわけホメーロスを泉・源流に喩えて捉える点)は偶然のものではないとして,後者が前者を借用したと考え『崇高について』の成立年代を紀元後1世紀初頭かあるいはそれより前に位置づける論文.
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...intravitque animum militaris gloriae cupido, ingrata temporibus quibus sinistra erga eminentes interpretatio nec minus periculum ex magna fama quam ex mala.
そして彼(※アグリコラ)の心には軍事的な栄光への野心が入ってきたが,これは当時(※ネローの晩年に言及している)としては歓迎されないものであった――抜きん出た人物に対する心象が好ましからざるもので,悪評に劣らず好評から危険が生じる時代だったのだ.(タキトゥス『アグリコラ』5.3)
ところでタキトゥス『アグリコラ』は『ゲルマニア』と共に國原先生の翻訳がちくま学芸文庫(1996年)に入っていて,その「訳者あとがき」が非常に印象深い文章ですので少し長いですが引用.
「古典は洋の東西を問わず,俗受けしないし,一時的にせよ流行ったり廃れもしない.古典はいつの時代にも,僅かな,しかし熱心な読者に求められ読み継がれ,幽谷の泉の如く訪れる旅人の喉を潤してくれる.
「しかし古典を読み始めると,静かな孤独の書斎が俄に賑わってくる.ギリシアやローマの古典の場合,今世紀初頭からの,運のよいときは十九世紀の西欧の碩学の御来駕を仰ぐこともあり得るのである.
「数種類の校訂本,註釈本,訳書を手許におき,難解,疑義の教えを乞い,多様の解釈に驚き,同じ見解に安堵し,軽率な読みを窘められながら諸学者と対話していくとき,古典を読む醍醐味が味わえる.このような諸刊本の比較考証を書き留めた註記は,一般の読者に無視されて当然であろう.しかし読者の中に西欧の対訳叢書の一冊と拙訳を比較しながら読まれる方のあることを心の中で願っている」(pp.249-250)