フィクション等で”リアルな心情”として描かれる感情などの描写を自分の中でちゃんと点検してみると「ないこたないけど別にそこまで比重は重くないかな」ってことが多く、でもこの点検って一旦やってみないとフィクションの方に感情が流されていってしまう気もする
フィクション等で”リアルな心情”として描かれる感情などの描写を自分の中でちゃんと点検してみると「ないこたないけど別にそこまで比重は重くないかな」ってことが多く、でもこの点検って一旦やってみないとフィクションの方に感情が流されていってしまう気もする
フィクションで描写される”真実味”に気圧されて、そこまで大きくないものを大きいと錯覚してしまい、「大きいのが普通」と認識してしまうような
ドラマチックな感情を”劇”的な感情と称するようにそれは劇であってリアルではなく、だからこそリアルに生きるひとびとがその劇的さに憧れ、そして同時にリアルなもっと平熱の心の動きを素晴らしいものと思えないのもフィクションの功罪と言えるのかもね
感情は一方向に大きく揺れ動けば最高ってわけでもない その基準を作っているのが他でもないフィクションだ
そういう平熱の心の動きは、かつてはTwitterとか、今だとMastodonとかで見られるもので、生活に則したことばの貴重さってあるな、と思う 生活に則した平熱のことばはなかなか商業ラインに乗らず、どうしてもインディーズ頼りになる
進学において苦労したことなかったのは、家庭ガチャ当たりのお陰でもあるし、最初からある程度諦めざるを得ない生育環境のせいでもある
高校を選ぶということをしなかったし、大学も奨学金を使わなくていい代わりに国公立や県立以外は選択肢から外したからなあ
今どき奨学金使わなくてよかったのはかなり恵まれてるけどね でも高校で例えば知らない土地に行っていたら何か違ったろうかと思わんこともない
不満はかなりないが、生まれた土地だけでかなりのハンデがあったことは事実だろうと思う 俺が勉学に真面目じゃない上に上昇志向がないから悔しい思いをせずに済んだ
一度だけ学校関連でやってみたいことを伝えた上で折れたことはあって、それは悔しかった 悔しい思いをしたり切磋琢磨するというのがとても苦手だからかずっとそういうことを避けている
私にとっては首位を争って能力を研磨するより人と衝突して悔しくかったり悲しくならない方がよっぽど大事なんだろうと思う 人と気まずくなることが苦手だな
でも社会運動の方はどうにか頑張ろうと思える 自分のことから遠いからかも 自分のことを開示して否定されるのは嫌だけど、社会のことを主張するのは遠いから(本当は近いんだけどね)
この世、「いざというとき真剣勝負ができないといけない」みたいな価値観あって、そんなんやーだよと思う 勝負向いてない 何に勝ってるんだよと思うし
勝負から逃げている奴は不誠実で良くない、みたいなんあんじゃん でも勝負なんてする機会ない方がいいよ 勝負する意味もないし
人のいとなみってもっと複合的で要素がいろいろあるのに、勝負って1要素だけ取り出して勝手にルール作ってそれが上か下かって競ってて、でもそんなんどうとでもできるのに恣意的に選んだ要素の上下を競ってなんなのよ となってしまい……