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いまさら「サバルタンは語ることができるか」を読んでいて、前提知識が足りなくて読みづらいけど、おもしろい。
スピヴァクのフーコー批判、知識人が自らを透明なものとして、被抑圧者自ら語らせる、というような操作をしているところにある(語ることができない主体はないことになる)と思うけど、これデザイナーがユーザーというものを立てる作用そのものだな。ペルソナとかかなりこれ。
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走りにいく時間がないからHIITでいいかとおもって久しぶりにやったらきつすぎて寝込んでしまった
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女性労働としての計算手は、ジェンダー化された労働であったことにも注意しておいたほうがいいとおもう。計算式は科学者がつくって、それを一定の規則にしたがって複数のラインで計算して、複数の結果が合致すれば計算は正しいみたいなやり方でやっていたはず。計算式やその計算方法を考えるのは男性科学者で、階層化された労働であった。
この計算労働の置き換えのために、フォン・ノイマンはコンピュータを設計していたという側面がある
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『眼の神殿』あたりの「近代化」のイメージ、いま思うと「西洋化」にひきずられすぎているとおもうんだけど、再読したい。高橋由一が風景を描いて主観・客観図式が導入されているとするのは、単純過ぎるんだけど、そう主張している箇所があるんだよなたしか。
このへんは大塚英志もけっこうそういう史観をつくりがちで、西洋文化の輸入=近代化という図式をつくりがちで、このへんは訂正する必要があると思うんだけど、こういう批判的検討はどのくらい明示的になされているのかわからんな。
木下直之の『美術という見世物』はそういう意味では、輸入された諸概念が在来の習慣のなかに違和感なく受容される様を丁寧に追っていて、「近代化」のイメージがそう言われるほど非連続的なものではないことを示している。
近代化が非連続的なものだとイメージされる史観、西洋的なものが日本において地盤をもたないものとして椹木野衣に変奏されているし、もっと古い事例でいえば近代の超克もそうだとおもう。
明治以降の「近代化」のナラティブが、戦前と戦後で実は共通するように思うんだけど(というか実はこのナラティブは無傷のまま修正されて戦後にひきつがれているんじゃないか)、このへんの論考書いている人いないかな...。美術だとおもいあたらないのだけど。
なんでこんなことが気になっているかというと、スピヴァクを読みつつ、その参考として丸山美佳の「アンラーンの可能性をめぐって」(群像2021年4月号)を読んで、スピヴァクの言う「アンラーン」も内面化された近代を忘れることであってみれば、ポストコロニアル/デコロニアル系の理論が南米で発達していたり、いわゆる第三世界で「近代化」のナラティブへの批判的な検討がポストコロニアル理論の背景にあるけど(サイードもこの系譜に入れていいかもしれない)、日本で直球で「近代化」のナラティブを批判的に検討しているのはあまり見ない気がする。というか美術業界では『眼の神殿』が1989年で、これが日本におけるポストコロニアル的反応(?)だとすれば、「近代化」についてかなり肯定的なナラティブを語っていることになる。
北澤の由一の風景画が遠近法的視覚を成立させているという議論に対する疑問・反論は、けっこう素朴に可能で、トンネルの外から見ている風景について「見る者を疎外するような景観」と述べているのだが、由一は同じトンネルをその内側からも描いている。この一例を見ても、北澤は結論ありきで由一の絵について論じているとおもう。これがまさに「近代化」のナラティブ。
https://scrapbox.io/tenjuu99/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%94%B1%E4%B8%80%E3%80%81%E5%8C%97%E6%BE%A4%E6%86%B2%E6%98%AD
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東久留米ってブリジストンの東京工場(小平市)ができたときに久留米から労働者がきて東久留米になったんだとおもってたけど違った(久留米から労働者がたくさん来たのは本当で、東京ではじめて久留米ラーメン売ってた店が近くにある)
ブリジストンが東京工場をつくるのは朝鮮戦争関係なんじゃないかというのを、調べたいとおもっているけどあまりわかっていない。戦後のモータライゼーションの流れもあるにせよ、むしろ所沢あたりから立川、府中あたりまで、東京西武は航空産業が盛んで、横田基地とかもあるし、ブリジストンはそれでデカくなったんじゃないか。
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持っているだけでかっこいい No.1
https://www.printing-museum.org/collection/looking/33173.php
おおまかには、女性の「主体性」がいかにご都合主義的に構築され、排除されてきたかを論じているのはわかる。読みながら、江戸期に吉原にいく女性にまつわる言説の分析にも応用できそうだなとは思うけど、なんにせよ難しい。
インドのインテリ階級にとって寡婦の殉死は女性の称賛すべき主体性の発揮であったが、植民者イギリス人にとって殉死した寡婦は支配階級による被害の結果であり、イギリスは「茶色い男性から茶色い女性を救った」ことになる。
どちらにしても寡婦の声は明らかではないが、勇敢な主体として構築されたり、被害者として構築されたりと、ご都合主義的に「主体」は構築され、もしくは消去される。
これ、浮世絵をめぐる諸問題としていまだに見る構図なんだよな。テレビないので蔦重のやつ見てないけど、前の芸大での吉原展の賛否も女性の主体構築による称賛か、被害の隠蔽かで対立するように見えるのだが、どちらにも賛同できないなと思っていたのがスピヴァクの分析に倣って思考できそうな気はする。
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現代思想のスピヴァク特集、「媒介的行為」に「エージェンシー」とルビがふってあるんだけど、「媒介的行為」ってなに?エージェンシーってふつうに行為主体性じゃないの?
スピヴァクがエージェンシーって言っているのは、明示していないけどラトゥールあたりが参照項?社会構築主義とか発言にあるのでそんな感じがするけど。
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サイードとかスピヴァクとかポストコロニアル全盛の時期に、その紹介につとめた柄谷が日本の近代の語りなおしをしたのはなぜなんだろうか。北澤憲昭や大塚英志も日本近代の語りなおしをやっているのも、柄谷の影響はかなり濃いとおもう。
サイードやスピヴァクはアメリカ国内の異邦人として、欧米の知識生産システムのなかで表象される他者を問題化したけど、柄谷や北澤、大塚に共通する語りがあって、明治における近代化を語る一方で植民地支配の話はあまりしないというか、他者みたいなものがない。柄谷はちょっとしている気がするけど(細かく追っていない)。
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守破離の概念が好きじゃないから「型がないのに型破りしている」というの、あんまり好きじゃない
守破離の守って初等教育において思考は不要だといっているようなもので、ほんとにそれでいいんだっけ?とはおもう。というか、思考や懐疑は型を身につけた人にしか許されないというのも、それでいいんだっけ?とおもう。
実践的な場面では教育なんてスキップされることがほとんどだから、最初はデタラメにやってみてできることできないことを身体的に把握していくのってけっこう重要なプロセスで、最初から型を守らせるみたいなのは応用が効かない。応用問題のほうが後にやってくるという教育の考えが、そんなことある?と思っている。
すげーあたりまえのことを言うけど、このへんはようするに日本のリベラリズム知識人たちで、リベラリズムのなかでは「近代化」っていうのはポジティブなものとして語られるんだよね。
北澤憲昭は柄谷行人の枠組みに完全に準拠しているけど、限界ははっきりしていて、大正時代とか昭和とか語れない。明治における制度の創造性が近代化だったわけで、そこが重要だった。これは大塚英志も似たようなところがあって、さすがに大塚は明治から戦争まで語るけど、特権的な位置に置かれるのが柳田國男で、真の近代化を主張したのが柳田だがメディアの発達が愚劣な大衆を作りだしたという史観を取っている(現代のSNSにあきらかに重ねている)。大塚の史観は、柳田的な「近代化」が達成されていれば人々は民主的主体として確立していたはずで真の近代化が達成できていたはずだ、という理屈がある。
議論の詳細にはたちいらないが、これと共通のマインドセットを感じるのは司馬遼太郎だったりする。司馬の史観は明治は偉大な指導者が立派な建国をしたのに、あとの世代で愚劣な指導者がでてきたから駄目になったというもの。
ここに列挙した北澤、大塚、司馬には共通して日本の「近代化」にたいして肯定的な評価があり、両価的なものとしては考えていない。ポストコロニアリズムが抵抗したのはまさにこの観念であったはずで、近代化=西洋化とは支配の歴史だと書き換えるためのプロジェクトだったはずだ。
全共闘の解体が、青華闘告発による日本帝国主義的体質の暴露によっていたことを考えると、リベラル知識人による「近代化」の肯定的な語りなおし(それもポスコロ全盛期において)は、素朴な意味でバックラッシュだったんじゃないかとおもうんだけど、こういう整理はされているんだろうか。
このへんの日本近代の語りなおしって、日本人による日本語りなんだけど、なんかそういう自己意識的なもの(の強化)から来ているんじゃないかというのはある。
現代思想、国連特集だとおもってたらけっこうパレスチナ関連の記事がある
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=4002&status=published
リベラリズムの一般的特徴として、近代化は悪くないが、今悪い問題が起きるのは運用が悪いからだ、みたいなのないですか。衆愚政治批判もリベラリズムから聞こえる気がしており、それは、リベラリズムの自己意識が「自分はじゅうぶんに近代化し、啓蒙された存在である」というものだから、蒙が開かれていない存在としての愚民を客体化できるため。じゅうぶんに啓蒙され民主的となった主体が運用すれば国家は適切に運用される。
山と渓谷社からすげー面白そうな本が来週発売される。読むしかねえ。
『歩くという哲学』
著者 フレデリック・グロ著
「世界中に影響を与え、世界を動かした思想家、哲学者、作家、詩人の思索の多くは、歩くことによって生まれてきました。
歩くことは、最もクリエイテブな行為なのです。
……
著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求します。」
太田好信「人類学とサバルタンの主体的関与(エージェンシー)」(現代思想2000年2月号)のなかでマリノフスキーについて簡単に説明されていて、人類学者が現地に関与せずに記録しようとする、みたいな民族誌的態度についての記述を読んでいると、観光客の哲学(東)とか読んでみてもいいのかもしれないとおもいはじめた
庭の話読んでる
最初らへんの記述がむちゃくちゃで、えーこれ大丈夫かな...と思ってたけど、庭の話とか具体的な事例とか出てきてからはわりとおもしろくよめる
「記述がむちゃくちゃ」というのは、金融資本主義とは個人の社会的信用に応じて市場から資金が調達されるメカニズムだとか書いてあったんだけど、いやそれ金融資本主義とまったく関係ない独自定義やめてくれ〜みたいなこと。これはひどい記述だった。
庭、nobi のこけら落としで郷くんに「秘密の花園」を主題として提示されてら気になってはいて、その続きを考えてみるのに(自分には)ちょうどよい本だ